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長野県茅野市

金鶏金山

2005年08月27日

金鶏金山付近略図

由来
金鶏金山は金の鉱脈が鶏の形で埋蔵されているとの伝承で名付けられ発掘は永禄の頃(1558)、武田信玄公の時代で甲州金24万両の金山のひとつである。今までに鶏の片羽の部分のみが掘られたといわれその後400年間黄金の夢を追って幾度か採掘が行なわれた。千軒平は金掘りの人達の居住地であった。
(看板資料より)

千軒平
茅野市唯一の高層湿原で貴重な植物が群生する。湿原地帯の上部には坑夫の小屋が沢山あったところからこの名がついた。また住宅と思われる場所付近からは沢山の遺物が出土している。
(看板資料より)


金鶏金山は、林道及び駐車場を挟んで右側(上側)と左側(下側)に各種史跡が点在します。即ち、右側(上側)には千軒堤築堤跡を経て、天保の墓石であり、左側(下側)には、屋敷跡・人夫小屋跡、不動明王の碑、天保の台座、武田坑・弁天鋪坑跡、事務所跡、ねこ流し水路の跡、焙焼炉の跡、水車場の跡、亀坑跡、鶴坑跡などです。更にこれらから少し林道を下ったところから武田信玄つるし掘跡(露天掘り)に行くこともできます。
右側(上側)の千軒堤築堤跡を経て、天保の墓石まで行くには、一番上の写真の入口のところから少し入ったところの左側にある看板で右ルートと左ルートが紹介されていますが、右ルートで行かないと多分たどり着けないと思います。私は左ルートを選択してしまって道に迷ってしまい山の中を放浪してしまいました。右ルートから行けば天保の墓石まではそんなに遠くはありません。

千軒堤築堤跡

湿原から湧出する水をせき止めて池を造った人工の土手といわれる。ねこ流しや水車を動かすには多量の水が必要のため大きな堤を造った。
(看板資料より)


天保の墓石

碑文
空深入禅定位
天保十年巳亥年6月12日 山内中
この年1839年には盛一次郎が稼業していたが大きな事故があり諏訪高島藩によって稼業の中止を命じられたという記録が残っている。その時の犠牲者の墓ではなかろうか。さらにこの場所には20数基の墓碑があったが関係者によるものか次々と持ち去られ今は1基となった。
(看板資料より)


屋敷跡・人夫小屋跡

千軒平湿原を源流として流れる金山沢の流れの両側に人工的に造られた平地(テラス)が何段かある。金山稼業当時の事務所や人夫小屋があった場所である。
(看板資料より)


不動明王の碑

背面の碑文
信濃国諏訪郡原村八ツ手願主横森槙三郎・津金治吉。明治31年農商務大臣認可・金鉱採掘特許第5292号
横森とは津金は兄弟である。一説によれば津金家の先祖は甲州津金城の城主であったが、天正10(1582)年織田信長の軍に攻められ落城し落ち延びた子孫であるという。
横森は大正3(1914)年の鹿児島県出身の渡辺清作に経営を譲り木舟の西方、舟沢の諏訪高島藩の経営した鉛山鉱山へ移った。津金は明治45年56歳で死亡、横森は大正9年60歳で亡くなっている。
(看板資料より)


天保の台座

碑文台座の側面
金山開基小平清左衛門屋昌・岩波太左衛門尚賢・武居左次衛門直政。金主松本米屋祐蔵・湊屋卯七。奥州仙台産山師盛一次郎盛喜。施主祈願所富士山成就院。山師手代岡田一助吹師長助。検師藤助。大工頭喜之助。掘子頭辰五郎。大工八太郎・松蔵・岡松・真次郎・寅松・兼吉・栄助・忠吉・国蔵・掘子中。
天保十巳亥十二月七日。高木親信。坂室新田石工文五郎。
文中小平は上諏訪宿の問屋、岩波と武井は下諏訪宿の問屋である。山師盛一次郎は天保9(1838)年の創業し弘化2(1845)年僅か7年で閉山した。
(看板資料より)


武田坑・弁天鋪坑跡

戦国大名の武田信玄が掘った坑道の下を、天保9年盛一次郎が弁天鋪と名づけて露天掘り(つるし掘り)方向へ向って掘り進めたという。この弁天鋪は西南西方向に70間(126メートル)掘り込んであるという。
また明治6年4月明治政府の鉱山寮長谷川光忠・小田縞由義の調査報告書『中山道筋並北陸諸鉱山点検明細録』によればこのとき原竹次郎なる者が稼業していたとある。原はこの弁天鋪をさらに掘り進み良鉱を掘り当てたがやがて出水のためあきらめ水抜きの大切鋪をあけていた。その外にも新口鋪を掘り進んでいたとある。
(看板資料より)


事務所跡

金山の事務所の置かれた場所である。戦国動乱の世に始まり400年の歳月にわたって栄枯盛衰を重ねた金鶏金山は幾多興亡を繰り返しながら戦後の時期まで操業された。夢を追い、野望に燃えた鉱山師の息吹きを感ずる場所である。周辺一帯のがれ場はすべて廃鉱の跡である。
(看板資料より)


ねこ流し水路の跡

鉱石を焼き水車で砕き、石臼で細かくした物をねこ(藁で編んだ筵)を敷き、砕いた鉱石を流すと比重の重い金粒は残り、砂は流れ金粒はその目に残る。それを集めて精製すれば金塊となる。
この水路は他の金山には例を見ない遺構であるといわれている。
(看板資料より)


焙焼炉の跡

鉱石を焼いたと思われる遺構である。石を烈火で焼けばもろくなり砕きやすくなる。また採掘道具(鑿や金槌など)の補修もしたであろう。
(看板資料より)


水車場の跡

炉で焼いた鉱石を水の力で搗いて、細かく砕いた水車小屋のあった場所といわれる。
(看板資料より)


亀坑跡、鶴坑跡はかなり分かりにくいところにあります。事務所跡付近の広場には、「鶴坑、亀坑の跡 川に沿って下る270メートル」と書かれた看板があります。この看板に従って川沿いに下って行くと道の右側は断崖絶壁になっていてその下に川が流れていますが、その崖が少し小さくなりかけたあたりで左側を見ながら歩いて行くと下の亀坑跡の看板の一部を見つけることができると思います。亀坑跡から更に尾根を登っていくと石垣のようなものが見えてきますが、その上に鶴坑跡があります。

亀坑跡

亀坑と名付けられたこの坑道は明治時代横森と津金によって掘られた坑道跡である。この坑道は武田時代に掘られた露天掘り(吊るし掘り)の下へ向って掘り進められている。
昭和47年に起きた日本赤軍の浅間山荘事件では、洞窟を隠れ家に利用して殺人などの凶悪犯罪の巣窟になる恐れがあるとのことで警察からの指令により洞窟は潰された。
(看板資料より)


鶴坑跡

亀坑と同じく横森と津金によって掘り進められた坑道跡である。この坑道も露天掘り(吊るし掘り)の下に向って掘られている。
(看板資料より)


武田信玄つるし掘跡(露天掘り)

つるし掘り(露天掘り)の跡
戦国時代、武田信玄採掘の跡といわれる。この周辺一帯には大小二百余の採掘跡がある。露天掘りをして深くなった時鉱石を吊るし上げたところからこの名前がついたという。
(看板資料より)


湯之奥金山博物館
中山金山
茅小屋金山・内山金山
黒川金山
おいらん渕
信玄坑(津具金山)
日影沢金山(安倍金山)
金山

 

 
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