黒川金山 |
|
約12年ぶりに黒川金山に行ってきました。上の写真は近代の坑道の部分ですが崩落していました。インターネットで調べてみると少なくとも2009年5月には崩落していたようです。 |
標高1710メートルを測る鶏冠山にあり、黒川千軒・寺屋敷・女郎ゴー・おいらん淵などの地名が残る。黒川金山遺跡研究会により考古・民俗・文献にわたる総合研究が実施されている。 |
|
前回の失敗を教訓にして再び黒川金山をめざしました。今回新たに用意したものはトラッキングシューズ、杖、膝のサポーターですが、その他にもスポーツドリンク、それに新しいシューズが少し小さいのが気になったので普通の運動靴も持っていくことにしました。やはり一人では危険?なので今回はチビリバビデ氏に同行してもらうことにしました。今回用意したシューズは少し小さかったせいか、厚手の靴下を履いたのにもかかわらず両足小指の外側及び左足のくるぶしが痛くなってしまい帰路運動靴に履き替えてしまいました。この日のために買ったにもかかわらず役にたたずにかなりショックでした。しかし膝のサポーターはかなり有効だったようで、帰路下りで少し痛くなりかけましたがなんとか帰ってくることができました。 |
朝、到着した時間が少し遅かったため林道前には車を止めるスペースが無かったので国道沿いにある水源探索関係の施設に車を止めて膝のサポーター、靴を履き替え、杖ももって、リュックには運動靴とカメラ、三脚、スポーツドリンクを入れて、朝9時15分に出発しました。前回は林道に向かって進んでいってしまいましたが、既に黒川金山への道は林道に行くのではなく、林道の入口の手前を右側に行くという情報を得ていたのでそちらに進みました。先日りりまるさんに写真も見せていただいていたので間違えることはありませんでした。 |
そのままかなりの距離を登り、上りきったところに「三条橋至る/藤尾橋方面至る」の看板を発見。ますます正しい道を歩いていることを確信しました。ここを左に進み、あとは多少の登り下りがありますがほぼ水平に進むことができました。その後、沢を渡り、大きな石も発見でき、大きな石を過ぎてしばらく行ったところが広くなっていて、テラスがたくさん出現してきました。多分ここらへんに建物が立ち並んでいて黒川千軒と呼ばれていたのでしょう。東大等による調査ではテラスの数は300段以上発見されたそうで、最盛期のころは本当に千人以上の人達がここで暮らしていたとのことでした。テラスは城跡でいう曲輪のような感じで、石垣で側面を補強し上が平らになっています。 |
その先には東京都水道局による道案内板がありました。ちょうど道がニ方向に分かれていて、右方面は黒川金山循環歩道、左側は黒川金山循環歩道及び、鶏冠山、新横手山峠(林道)と書いてありましたが、循環歩道と書いてあったのでどちらに行っても同じと判断し、左側へ進むことにしました。左側の道には橋がかかっていて橋を渡ってから登り道になります。途中、大きな石に根を張らしている木がありました。既に坑道を探すために上方向を見ながら歩いていたせいか、気分が悪くなってしまいました。その後再び「黒川金山上」という案内板が出てきたのでそこを右に進んでしばらく行ったところでとうとう坑道を発見することができました。入口には入れないように?柵がありましたが鍵がかかっていないので柵をあけて中に入ることができました。坑道の入口には木がたてかけてあり、恐る恐るその隙間から中をのぞきこんで見ましたが中は真っ暗で何も見れませんでした。中はかなり涼しそうで冷気がひんやりしていました。坑道の入口の上は巨大な岩ですが人工的に岩を切ったような感じに岩が割れており、今にも崩れてきそうな感じでした。その光景はちょっと異様で、見てはいけないものを見てしまったような気分になり思わず手をあわせました。付近には案内板などは無く、本当にここは国指定の史跡なのかと思ってしまいます。坑道の入口の右側に、付近一帯が黒川金鉱であり、右側には鶏冠山が見える旨の木の板がありました。
|
2003年08月23日(失敗) |
車を止めたところは、林道泉水横手山線の入口のところ(左の写真)です。林道泉水横手山線というのは、国道411号線を東京から塩山方面に進み、丹波山村から塩山市に入るあたりに左の方に入れる狭い道に進むとすぐにここにたどり着くことができます。実は人文社の山梨県広域道路地図によれば、黒川金山に向かう途中、国道411号線(青梅街道)沿いに信玄屋敷というのがあったので寄りたかったのですが既にトンネルになってしまっていました。多分旧道にいけばあるかもしれません。話はもどりますが林道泉水横手山線の入口に車を止めた後、既に私の頭の中にはこの林道を進んでいくイメージができあがってしまっていたのでゲートを越えて進んでいきました。朝8:30出発です。(りりまるさんの情報によれば、本当はこのゲートを越えて林道を進んでいくのではなくこの入口の右側にある道を進んでいくのだそうです。) |
林道は500メートルごとに標識があったので多少励みになりました。りりまるさんのレポートでは入り口から約20分歩いたところに木の橋があるとのことでしたが、既に歩き出してから1時間以上が経過していました。おかしいとは思いましたがきっと山歩きに慣れている人なので早く歩けるのだろうと自分に言い聞かせました。また黒川金山というのだから黒川山の山腹にあるはずなのにどんどん黒川山から離れていってしまうのもおかしいなぁとは思いましたが更に進みました。そしてとうとう入口から4km地点を越えたところに左側に河原に降りられる木の階段があり、更にその奥には川を渡るための木の橋(右の写真)があったのです。りりまるさんのレポート通りに木の橋があったので今日の目的地である黒川金山はこの先に違いないとますます確信したのです。しかし実は全然違っていたことは帰宅後りりまるさんに教えてもらうことによって分かったのですが。。それにしても偶然こんな木の橋があったことによってこの先さらに見当違いなところへ行ってしまうことになるのです。りりまるさんレポートによればこの先、「ジグザグに高度を上げていく。「藤尾橋方面至る」「三条橋至る」の道標のある分岐を左折。自然林の緩やかな道をしばらく進む。左下方には黒川谷の流れの音が聞こえる。」とあり、まさしくその通りにジグザグと高度を上げていき、泉水谷から黒川谷(実は小室川)へ上っていき、左下には黒川谷(実は小室川)の流れが聞こえました。林道の入口から黒川金山までは2時間くらいで着くという話は聞いていたので、木の橋から1時間くらい歩けば着くだろうと思っていたのですが、ちょうど坑道らしきものが出てくるようにはなったのですが穴は無くただ大きい石があるだけでした。その後その周辺を1時間くらい行ったり来たりしましたが、露天掘りと思われるような場所?はありましたが、結局決定的な坑道を発見することはできず、本当に残念でしたが戻ることにしました。既にいつものように右足の膝が痛くなってしまっており、下り道は大変でした。途中何度も休憩しながらやっとのことで木の橋のところまできましたが、林道に出てからは数百メートル歩くたびに休憩を繰り返し、なんとか林道の入口まで戻ってくるとができました。13:50到着。 |
黒川金山には信玄が、志賀城などの佐久の城を攻めたときに捕虜となった人達が大勢連れてこられたとのことです。また塩山の放光寺には黒川金山で犠牲になった人達を鎮魂する仏像があります。
→おいらん渕
|