←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県甲州市

黒川金山


2015年07月26日

約12年ぶりに黒川金山に行ってきました。上の写真は近代の坑道の部分ですが崩落していました。インターネットで調べてみると少なくとも2009年5月には崩落していたようです。
立ち入り禁止の柵も壊れていて危険な状態でした。

標高1710メートルを測る鶏冠山にあり、黒川千軒・寺屋敷・女郎ゴー・おいらん淵などの地名が残る。黒川金山遺跡研究会により考古・民俗・文献にわたる総合研究が実施されている。
「王代記」明応7(1497)年条の「金山クツレ」の記述を黒川金山を指すものとする指摘もあり、甲斐の金山の中でもその操業が古く考えられているものである。
元亀2(1571)年駿河深沢城攻めに際して黒川金堀衆へ戦功賞与として諸役免許の武田家印判状が与えられた。また天正5(1577)年黒川金山衆に宛てた「於金山黄金無出来」として諸役免許の印判状がある。
発掘調査により大小320ヶ所のテラス(平場)と30数ヶ所の坑道が確認され、「黒川千軒」などといわれる鉱山町の一端が明らかとなった。
確認されたテラスは選鉱・精錬などの作業場の他、墓・日常生活空間などと想定され、ここでの活動は16世紀前半頃から始まり、17世紀初頭まで繁栄を続け、その後17世紀末までは規模を縮小しつつも操業されていたことが認められた。
「黒川金山衆」として一括して登場する人々には田辺・古屋・風間・田草川氏など本拠を金山周辺の里に置き定着する諸氏とともに、一方では他地域の金山を追い求め、漂泊を繰り返す者や鉱山開発とは別に水利事業に転身する者など多様な人々が存在した。
(「武田信玄大辞典 芝辻俊六編」より抜粋)

 



2003年09月06日

前回の失敗を教訓にして再び黒川金山をめざしました。今回新たに用意したものはトラッキングシューズ、杖、膝のサポーターですが、その他にもスポーツドリンク、それに新しいシューズが少し小さいのが気になったので普通の運動靴も持っていくことにしました。やはり一人では危険?なので今回はチビリバビデ氏に同行してもらうことにしました。今回用意したシューズは少し小さかったせいか、厚手の靴下を履いたのにもかかわらず両足小指の外側及び左足のくるぶしが痛くなってしまい帰路運動靴に履き替えてしまいました。この日のために買ったにもかかわらず役にたたずにかなりショックでした。しかし膝のサポーターはかなり有効だったようで、帰路下りで少し痛くなりかけましたがなんとか帰ってくることができました。


朝、到着した時間が少し遅かったため林道前には車を止めるスペースが無かったので国道沿いにある水源探索関係の施設に車を止めて膝のサポーター、靴を履き替え、杖ももって、リュックには運動靴とカメラ、三脚、スポーツドリンクを入れて、朝9時15分に出発しました。前回は林道に向かって進んでいってしまいましたが、既に黒川金山への道は林道に行くのではなく、林道の入口の手前を右側に行くという情報を得ていたのでそちらに進みました。先日りりまるさんに写真も見せていただいていたので間違えることはありませんでした。
 この道は最初は車でも通れるのではないかと思えるほどいい道だったのですが、そのうち落石や路肩崩れがひどくなりとても車が入れるような道ではありません。崩れた路肩の先には断崖絶壁で思わず足がすくんでしまいます。りりまるさんの情報の通り約20分くらい歩くと急に道は狭くなり、木の橋が出現しました。この橋を渡ってここから先は山道を登るような感じになります。最初は黒川沿いに登るのですが道を見失ってしまい、気がついたらそのまま黒川の沢登りをしていたのです。私は万全すぎる格好だったので良かったのですが、同行していただいたチビリバビデ氏は運動靴ですらなかったのでかなり大変だったようです。これはおかしい!と思って撤退を決意し、再び前回の失敗が頭の中をよぎりました。しかし黒川に入る手前まで引き返したところ山の上に向かっている山道を発見することができ、ほっと一息。15分くらいロスしましたが一休みしてから出発です。

そのままかなりの距離を登り、上りきったところに「三条橋至る/藤尾橋方面至る」の看板を発見。ますます正しい道を歩いていることを確信しました。ここを左に進み、あとは多少の登り下りがありますがほぼ水平に進むことができました。その後、沢を渡り、大きな石も発見でき、大きな石を過ぎてしばらく行ったところが広くなっていて、テラスがたくさん出現してきました。多分ここらへんに建物が立ち並んでいて黒川千軒と呼ばれていたのでしょう。東大等による調査ではテラスの数は300段以上発見されたそうで、最盛期のころは本当に千人以上の人達がここで暮らしていたとのことでした。テラスは城跡でいう曲輪のような感じで、石垣で側面を補強し上が平らになっています。

  

その先には東京都水道局による道案内板がありました。ちょうど道がニ方向に分かれていて、右方面は黒川金山循環歩道、左側は黒川金山循環歩道及び、鶏冠山、新横手山峠(林道)と書いてありましたが、循環歩道と書いてあったのでどちらに行っても同じと判断し、左側へ進むことにしました。左側の道には橋がかかっていて橋を渡ってから登り道になります。途中、大きな石に根を張らしている木がありました。既に坑道を探すために上方向を見ながら歩いていたせいか、気分が悪くなってしまいました。その後再び「黒川金山上」という案内板が出てきたのでそこを右に進んでしばらく行ったところでとうとう坑道を発見することができました。入口には入れないように?柵がありましたが鍵がかかっていないので柵をあけて中に入ることができました。坑道の入口には木がたてかけてあり、恐る恐るその隙間から中をのぞきこんで見ましたが中は真っ暗で何も見れませんでした。中はかなり涼しそうで冷気がひんやりしていました。坑道の入口の上は巨大な岩ですが人工的に岩を切ったような感じに岩が割れており、今にも崩れてきそうな感じでした。その光景はちょっと異様で、見てはいけないものを見てしまったような気分になり思わず手をあわせました。付近には案内板などは無く、本当にここは国指定の史跡なのかと思ってしまいます。坑道の入口の右側に、付近一帯が黒川金鉱であり、右側には鶏冠山が見える旨の木の板がありました。
ここで採掘された金が武田軍の軍資金となり、適地から捕虜が連行され、また金山採掘技術者が各地の城攻めの際に同行して城の水の手をとるなどして活躍したのです。

 


2003年08月23日(失敗)
武田家の開発した金山のうち、最も有名な金山のひとつがこの黒川金山です。塩山市の奥の方にあるということは知っていましたが、今回インターネットで事前に調べた結果、りりまるさんのサイト黒川金山についての黒川金山跡への道に詳しく書かれていたのでこのページを印刷してPSアドバイザー氏に見てもらいながら目的地へと向かうことにしました。後で分かったことですが事前調査の段階で既に目的地の場所を間違ってイメージしていました。黒川金山についての黒川金山跡への道には、
「青梅街道(国道411号線)を奥多摩から塩山市方面へ。泉水谷が丹波川と出合うところが三重河原。左手の三条新橋を渡り泉水谷林道の入り口に車を停める。
丹波川沿いの道を上流に向かって20分ほど歩くと、左から小滝をかけて黒川谷が出合う。木の橋を渡り、黒川谷上流に少し向かい、滑滝が見えたら右手の斜面を登る道があるので、そこを入る。植林の中をジグザグに高度を上げていく。
「藤尾橋方面至る」「三条橋至る」の道標のある分岐を左折。自然林の緩やかな道をしばらく進む。左下方には黒川谷の流れの音が聞こえる。」
とありますが、私が勝手に丹波川を泉水谷と勘違いし、黒川谷を小室川と勘違いしてしまい、ここ→  に行ってしまったのです。


車を止めたところは、林道泉水横手山線の入口のところ(左の写真)です。林道泉水横手山線というのは、国道411号線を東京から塩山方面に進み、丹波山村から塩山市に入るあたりに左の方に入れる狭い道に進むとすぐにここにたどり着くことができます。実は人文社の山梨県広域道路地図によれば、黒川金山に向かう途中、国道411号線(青梅街道)沿いに信玄屋敷というのがあったので寄りたかったのですが既にトンネルになってしまっていました。多分旧道にいけばあるかもしれません。話はもどりますが林道泉水横手山線の入口に車を止めた後、既に私の頭の中にはこの林道を進んでいくイメージができあがってしまっていたのでゲートを越えて進んでいきました。朝8:30出発です。(りりまるさんの情報によれば、本当はこのゲートを越えて林道を進んでいくのではなくこの入口の右側にある道を進んでいくのだそうです。)
とにかく林道を進んで行けば次のチェックポイントである木の橋が出てくるはず!と思ってひたすら歩きつづけました。今回は事前に今までよりもかなり歩くことになることを覚悟していたので妹氏から借りた登山用の杖と会社の夏祭りでもらった帽子を持参してきました。しかし行けども行けども木の橋は出てきません。もともと運動不足である私にはそろそろきつくなってきましたがそんな思いと同時にこれは久しぶりに凄い史跡にめぐりあえそうだ!という期待も膨らんできました。林道は途中土砂崩れ個所があったり、水が染み出してきている場所があったり、今にも崩れてきそうな物凄い崖があったり、路肩が崩れてしまいそうなところや、すごく深い谷のところなど今のままでは開通しそうもない林道でした。


林道は500メートルごとに標識があったので多少励みになりました。りりまるさんのレポートでは入り口から約20分歩いたところに木の橋があるとのことでしたが、既に歩き出してから1時間以上が経過していました。おかしいとは思いましたがきっと山歩きに慣れている人なので早く歩けるのだろうと自分に言い聞かせました。また黒川金山というのだから黒川山の山腹にあるはずなのにどんどん黒川山から離れていってしまうのもおかしいなぁとは思いましたが更に進みました。そしてとうとう入口から4km地点を越えたところに左側に河原に降りられる木の階段があり、更にその奥には川を渡るための木の橋(右の写真)があったのです。りりまるさんのレポート通りに木の橋があったので今日の目的地である黒川金山はこの先に違いないとますます確信したのです。しかし実は全然違っていたことは帰宅後りりまるさんに教えてもらうことによって分かったのですが。。それにしても偶然こんな木の橋があったことによってこの先さらに見当違いなところへ行ってしまうことになるのです。りりまるさんレポートによればこの先、「ジグザグに高度を上げていく。「藤尾橋方面至る」「三条橋至る」の道標のある分岐を左折。自然林の緩やかな道をしばらく進む。左下方には黒川谷の流れの音が聞こえる。」とあり、まさしくその通りにジグザグと高度を上げていき、泉水谷から黒川谷(実は小室川)へ上っていき、左下には黒川谷(実は小室川)の流れが聞こえました。林道の入口から黒川金山までは2時間くらいで着くという話は聞いていたので、木の橋から1時間くらい歩けば着くだろうと思っていたのですが、ちょうど坑道らしきものが出てくるようにはなったのですが穴は無くただ大きい石があるだけでした。その後その周辺を1時間くらい行ったり来たりしましたが、露天掘りと思われるような場所?はありましたが、結局決定的な坑道を発見することはできず、本当に残念でしたが戻ることにしました。既にいつものように右足の膝が痛くなってしまっており、下り道は大変でした。途中何度も休憩しながらやっとのことで木の橋のところまできましたが、林道に出てからは数百メートル歩くたびに休憩を繰り返し、なんとか林道の入口まで戻ってくるとができました。13:50到着。


黒川金山には信玄が、志賀城などの佐久の城を攻めたときに捕虜となった人達が大勢連れてこられたとのことです。また塩山の放光寺には黒川金山で犠牲になった人達を鎮魂する仏像があります。
今回、場所は違いましたが、金山へ向かう道を歩きながら、彼らも故郷から遠く離れたこの道を、もしかしたら二度と戻ることができないかもしれない道をどんな思いで歩いて金山まで向かったのだろうか?と思いながら歩きました。

 


おいらん渕
湯之奥金山博物館
信玄坑(津具金山)
日影沢金山(安倍金山)
金山

 

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→