志賀城 |
2014年05月03日 |
『源平盛衰記』『平家物語』などに志賀七郎・八郎の名が出てくるが、志賀城を構築していたかどうかは明らかではない。志賀城が記録に現れるのは戦国時代に入ってからで、当時は笠原新三郎清繁が在城していた。笠原氏の身元は明らかではないが村上氏に関係があった者であろう。 |
本郭下の石積み
東からの尾根がやや下がったあたりに二つの堀切があり、それから数m登って一郭、続いて大きな堀切と土塁があり、本郭となる。本郭の三方は部分的に石積みされた所がみられ、その下西から北側にかけて段郭がある。この段郭部の西にまた堀切があり、やや斜面のゆるい郭部となり、尾根は西へややなだらかに下っている。水の手は北側にあり、ここから下は斜面もややゆるく、武田軍の攻城の際は、ここがまず奪取されている。南側直下は断崖かそれに近い急峻となって志賀本郷まで下っている。 |
掘切
帯曲輪
雲興寺
笠原清繁の墓
雲興寺の方の話によると、最近雲興寺裏の竹薮を整理して掘り起こしたところ、幾つかに割れた石が出土されつなぎ合わせてみると笠原清繁の墓石だったとのこと。志賀城から下りてきてから教えていただき現地に行ってみました。 |
笠原清繁の位牌
2003年04月03日 |
前回来たときは登山道で迷ってしまって、目の前に大きく立ちふさがった崖の下で途方にくれてしまったのですが今回は前回の失敗を教訓にして登っていきました。大きな崖の上に行くことができましたが、そんなに広い場所ではありませんでした。更に奥に進み堀のようなもので区切られていているところを超えて登っていくと山頂にたどり着くことができ、上の写真のような祠を見つけることができました。 |
志賀城の崖は、内山城や田の口城と比べても一番その規模が大きく、登山道の更に奥にも延々と続いています。登山道付近よりも更に奥の前回さまよった場所に行ってみようとしたのですが落ち葉で滑りやすくなっていて歩きにくかったので断念しました。 |
山頂付近で認められた石垣? |
2003年06月29日 |
志賀城主笠原新三郎清繁は武田信玄に対して徹底抗戦の姿勢を崩さず、ついに天文16(1547)年夏には武田勢に包囲されてしまう。信玄の本隊は桜井山城(稲荷山城のことであるとの説があるとのこと)におかれたという。笠原清繁は上州上杉憲政に援軍を要請し、その部下である金井秀景が率いる三千人が信州に援軍として来るが、武田勢は二千人で志賀城を抑えたまま残りの軍勢で小田井原にて上州軍と合戦におよび、これを撃破する。 |
雲興寺
志賀城に行くには雲興寺を探すべしとの情報の通り、雲興寺に車を止めていざ出発である。後で下りてきてから聞いたのですが寺の右側から裏の墓地にまわれるところから山に向かって道があり、そこを登って行って大きな岩場を避けるように左側から登れば行かれるらしいのですが、そんなことも知らずに更に右側の道(一番上の写真の道)から進入しました。途中古い石垣の跡などがありましたが肝心の道はなくなってしまいました。それでも道なき道?をどんどん登り、結局大きな岩場にぶち当たってしまってそれ以上登ることができずに断念して左側にまわりながら下ってきました。岩場で立ち往生したときは触った木に蛇がいて大変でした。正面からは絶対に攻撃できない城であることも十分に実感できました。 |