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長野県佐久市

稲荷山

2014年05月03日

郭からの景色(千曲川)

稲荷山城は旧臼田村の南、稲荷山山頂にある。城域の南半分は旧勝間に属し、「勝間反ノ砦」と呼ばれるのもそのためである。東側は約40mの断崖をなして千曲川に臨み、南北も急崖をなしている。西側はやや平坦で勝間・下小田切など切原の谷に続く。
北八ヶ岳東麓丘陵の最先端で、佐久平の南限に突き出しているため、眺望は極めてよく、佐久平を一望のうちに収め、その周辺部に散在する田口城、平賀城、平尾城、岩尾城、虚空蔵山の烽火台、前山城、荒山城、医王寺城、湯原城、雁峰城、下畑城、本間城、蟻城、花岡烽火台、入沢城、更に遠く小諸城近辺まで望むことができる。また交通上からみれば、佐久から甲斐方面への咽喉を扼する位置にあり、佐久甲州往還は城の西側を通っていた。
『千曲之真砂』に「桜井対馬居之、又図書トモ有、古代年代伝記未詳(中略)信玄信越ニ州出張之度々以此処為陣場」とあるように来歴は明らかではない。信玄が佐久侵入の折、「以此処為陣場」といっても、関係記録に稲荷山城の表現はなく『高白斎記』に「桜井山の御判形伴野に渡す」「桜井山御着城」などとある桜井山城が、古地図や信玄の行動の道順の考証から、この稲荷山城であったろうと推定されている。
(日本城郭大系より) 



稲荷神社

稲荷神社
社伝によると正歴年中(990〜995)山城国より勧請したという。中世には勝間城鎮守として武将の崇敬厚く、武田信玄も緋の玉垣を奉納している。廃城後佐久平を一望に収める景勝地に鎮座するお稲荷さんは人々の崇敬厚く、千曲の真砂(宝暦3(1752)年)には稲荷山に稲荷大明神あり、石段二百ばかり川に臨みてよき風景なりとある。
明治6年郷社に列せられる。ウカノミタマノ命の「ウカ」とは清浄で立派な食物のことでその根本は稲(生き根)であり、人々の生命を養い育てる力を持っているための名である。
その奥にあってすべてのものを生かす力を「ミタマ」と名付ける。それ故御神名は人々の生名を養い育てる根源の力を称えたものである。ご祭神を別名御饌津神とも申し上げ狐の古名ケツネとの同音から三狐神の字を当てたことからお稲荷さんの神使を狐とする眷属信仰が上古から広がっている。
小満祭は東信随一の賑わいで十数万の人出がある。
(看板資料より)



2003年06月29日

稲荷山が古城址であることは地元の人もほとんど知らないとのことです。東側は千曲川に向かって断崖絶壁になっているし、南北両方ともに険阻な地形になっています。現在は宅地開発でほとんどを失ってしまったそうですが、北から西に空濠がめぐらされ、西南方にも空濠があったそうです。歴史的に詳しいことは分かっていないらしですが佐久を攻略した武田氏にはきっと関係のあったお城だったと思います。


頂上からの景色(浅間山と千曲川)

 
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