伴野城 |
2014年05月03日 |
土橋跡
伴野城跡 |
前山城に本拠を移して後伴野氏は、その頃から佐久に侵入を開始していた甲斐武田氏に近づいたようであるが、記録上前山城が攻略されるのは天文17(1548)年で、『高白斎記』には同18年「伴野左衛門方始めて出仕」「伴野左衛門大夫始めて出仕」と見えている。 |
土塁
鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の本丸にあたる地域である。東西74〜85メートル、南北110メートルの長方形をしていて、周囲に用水路をめぐらし、その内側にそって、西、北、東の三方に土塁を残している。南の中央に入口を設け、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。この館跡は室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大した。その後更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正11(1583)年芦田信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊されたが旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができた。江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続した。 |
大伴神社
2007年10月07日 |
伴野城には以前来たことがありましたが、そのときは工事中で青いマットで覆われていました。今回近くに来たのでその後どうなったのか気になり立ち寄ってみました。 |
伴野城跡 |
2003年06月29日 |
鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の本丸にあたる地域である。東西74〜85メートル、南北110メートルの長方形をしていて、周囲に用水路をめぐらし、その内側にそって、西、北、東の三方に土塁を残している。南の中央に入口を設け、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。この館跡は室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大した。その後更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正11(1583)年芦田信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊されたが旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができた。江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続した。 |