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長野県佐久市

伴野

2014年05月03日

土橋跡

伴野城跡
東西74〜85m、南北110mの南北に長い長方形で、周囲に土塁と堀を廻らせた城の主郭部分にあたる。土塁は北側と西側、東側の北半分が残存し、掘りは全周が残存する。南側の中央に入口を設け、南西の高台に物見櫓を設けていたと伝えられている。県史跡指定を受けた部分は、鎌倉時代〜室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と考えられる。また戦国時代頃に館を兼ねた城として増改築されたと考えられている野沢城の主郭部分にあたる。16世紀末に戦乱のすえ廃城となるが、佐久地方に侵攻してきた有力氏の支配拠点などとして利用された。江戸時代には官庫・陣屋・藩出張所などとして存続し、明治時代以降は神社境内や官公地として、現在は公園と境内地として利用されている。平成14年から16年に環境整備にともない、史跡内の一部と土塁・堀の一部の確認調査を実施し、南側入口付近で戦国時代と考えられる石積みで補強された土橋と、底面まで傾斜する堀が発見された。東側の土塁の確認調査では15〜16世紀に推定される土塀の基部状の石積みを持つ土塁が現在の土塁下部でみつかっている。
(看板資料より)

前山城に本拠を移して後伴野氏は、その頃から佐久に侵入を開始していた甲斐武田氏に近づいたようであるが、記録上前山城が攻略されるのは天文17(1548)年で、『高白斎記』には同18年「伴野左衛門方始めて出仕」「伴野左衛門大夫始めて出仕」と見えている。
天正10(1582)年3月武田氏の滅亡後、佐久は滝川一益領となるが、北条氏が急速に侵入し、佐久の諸将は概ねこれに服した。一方徳川家康の命を受けた依田信蕃は遠江の二俣から芦田に帰り、北条勢と戦った。同年7月、野沢城は信蕃の一族依田肥前守の手に落ち、前山城は11月に佐久の諸城と共に信蕃によって攻略された。
(日本城郭大系より)

土塁

鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の本丸にあたる地域である。東西74〜85メートル、南北110メートルの長方形をしていて、周囲に用水路をめぐらし、その内側にそって、西、北、東の三方に土塁を残している。南の中央に入口を設け、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。この館跡は室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大した。その後更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正11(1583)年芦田信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊されたが旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができた。江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続した。
上述のように本遺構は鎌倉時代以降伴野氏歴代の居館(城)として500年近い年月にわたって使用されたもので土居及び掘りの一部を失ってはいるが、もとの規模を知り得る得難い史跡である。
(看板資料より)

大伴神社



2007年10月07日

伴野城には以前来たことがありましたが、そのときは工事中で青いマットで覆われていました。今回近くに来たのでその後どうなったのか気になり立ち寄ってみました。
前回来たのは4年前でしたが、そのときと同じ所に車を止めました。ここが正面だと思います。4年前にもあった伴野城跡と書かれた棒杭が今でもありました。そして以前はこっち側にも土塁のようなものがあったような気がしましたがすっかり開けて広々としていました。あとで4年前の写真を見てみましたが確かに土塁と呼べるようなものではありませんでしたが木が生えていて土が盛り上げられていて塀のような感じになっていたのでした。水路も大きく広げられて整備されていました。そして土橋跡を渡ってすぐ右側に立派なトイレと屋根付きの休憩場所ができていました。神社と土塁側はほとんど昔のままのように思われました。

伴野城跡
東西74〜85m、南北110mの南北に長い長方形で、周囲に土塁と堀を廻らせた城の主郭部分にあたる。土塁は北側と西側、東側の北半分が残存し、掘りは全周が残存する。南側の中央に入口を設け、南西の高台に物見櫓を設けていたと伝えられている。県史跡指定を受けた部分は、鎌倉時代〜室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と考えられる。また戦国時代頃に館を兼ねた城として増改築されたと考えられている野沢城の主郭部分にあたる。16世紀末に戦乱のすえ廃城となるが、佐久地方に侵攻してきた有力氏の支配拠点などとして利用された。江戸時代には官庫・陣屋・藩出張所などとして存続し、明治時代以降は神社境内や官公地として、現在は公園と境内地として利用されている。平成14年から16年に環境整備にともない、史跡内の一部と土塁・堀の一部の確認調査を実施し、南側入口付近で戦国時代と考えられる石積みで補強された土橋と、底面まで傾斜する堀が発見された。東側の土塁の確認調査では15〜16世紀に推定される土塀の基部状の石積みを持つ土塁が現在の土塁下部でみつかっている。
(看板資料より)



2003年06月29日

鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の本丸にあたる地域である。東西74〜85メートル、南北110メートルの長方形をしていて、周囲に用水路をめぐらし、その内側にそって、西、北、東の三方に土塁を残している。南の中央に入口を設け、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。この館跡は室町から戦国時代にかけて伴野氏が館跡を本丸として二の丸、三の丸、出丸等を設け土居を築き、堀をめぐらす等順次規模を拡大した。その後更に防衛のための前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正11(1583)年芦田信蕃のために野沢城も前山城もろとも攻略され、兵火で破壊されたが旧館本丸だけはかろうじて旧形をとどめることができた。江戸時代以降は官庫、陣屋、岩村田藩出張所等概ね官公地として存続した。
上述のように本遺構は鎌倉時代以降伴野氏歴代の居館(城)として500年近い年月にわたって使用されたもので土居及び掘りの一部を失ってはいるが、もとの規模を知り得る得難い史跡である。
(看板資料より)


武田信玄が上田原の戦いで打撃を受けた後、村上側の佐久地方への策動により、田口氏とともに伴野氏は武田信玄に背きましたが田の口城が落とされた後に伴野氏の前山城も攻撃され、落城している。

 


田の口城
前山城

 

 
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