笠原新三郎首塚 |
2014年05月03日 |
天文9(1540)年頃から甲斐武田氏の佐久侵入が本格的になり、佐久の地侍の大部分は同12〜13年頃までにこれに降り、同15年には内山城も落ちて、残るは志賀城だけとなった。そのため同16年閏7月には武田信玄自らが出馬して志賀城を陥落させている。
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2003年04月03日 |
志賀城から県道44号線(下仁田浅科線)に出て群馬県方面にしばらく行くと、県道沿いの向って左側の田んぼの中に笠原新三郎首塚があります。道沿いにはその旨の案内板もあるのですぐに分かると思います。
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