山梨県大月市
2014年09月14日
笠原夫人の墓
五輪塔ノ由来 武田信玄合戦記 天文16(1547)年、武田ノ攻ニ屈シタ信州志賀城主笠原新三郎ハ従ハザルヲ得ナカッタ其ノ夫人21才賢才ニシテ美貌ノ誉高ク武田方ノ噂ニ登ッタ。小山田殿、夫人ニ惚レ込ミ譲リ受ケ、駒橋ノ館ニツレ帰リ、妻カ側室カハ不明トシタ天正6(1578)年夫人52才デ此ノ世ヲ去ル。信茂自身ノ寺ノ此ノ地ニ手厚ク弔ウ。翌7年武田勝頼築山殿ヲ後妻ニト進メル然ルニ戦国ノ世ニ相応シイ平和ノ武将モ追ニ天正10年5月宝林寺開祖ト共ニ善光寺裏庭デ儚ク露ト消エテ逝ク。 (石碑記載文章より)
以前、お薦めの史跡として掲示板で教えていただいたところで気になっていたのですが、なかなか寄ることができずにいました。 宝林寺の一角に石碑があって説明文が書かれていましたが笠原新三郎清繁の夫人の墓がどこにあるのは分かりませんでした。 石碑の前のお宅を訪問して笠原清繁夫人の墓の場所を聞いてみたところおじさんが丁寧に教えてくれました。それによると宝林寺本堂の右側にある池の少し奥にあるとのことでした。現地に行ってみると確かに池の横奥に小さな塔がありました。
→志賀城 →笠原新三郎首塚 →笠原城