おいらん渕
この地を「おいらん渕」というが、土地の人は「銚子滝」という。おいらん渕はこれより上流の藤尾橋近くにある「ゴリョウ滝」のことではないかと伝えられている。
戦国時代、黒川千軒といわれたころ、金山の近く女郎郷に金山坑夫慰安の遊女を多く置いた。ところが武田家が滅亡し、これ以上経営できなくなり廃山のおりに当時五十五人もいた遊女たちを金山の秘密が漏れることを防ぐため、柳沢川に演台をつくりその上で舞わせた。舞の最中演台を吊っていた藤づるを切って演台もろとも渕へ沈めたことから、「おいらん渕」の伝説が生まれた。下流丹波山村にはその遊女の死体を引き上げお堂を建てて村人たちが供養したと伝えられる。現在お堂はないが、この地を「おいらん屋敷」とも呼んでいる。
(看板資料より)
黒川金山
ここ南西の地に黒川鶏冠山(標高1710メートル)がある。その山裾黒川にそって黒川金山跡がある。黒川金山の歴史には平安、鎌倉、室町時代を通じてこの地方を治めた豪族三枝、安田、武田氏とのかかわりを伝えている。
また採鉱については武田信虎時代からと伝え、特に武田信玄時代が最盛期であった。武田軍の軍用金の多くはこの黒川金山から産出されたという。ところが武田勝頼のころには衰えて閉山となったが、徳川時代になって、大久保長安らによって再び採掘が行われた。その後金の産出量が減少し閉山となった。黒川金山には、黒川千軒といわれた時代の坑道跡、坑夫の住居、作業場の跡がみられる。この地域は他にも竜喰金山、牛王院金山などがあり、歴史的にも注目されている。
また、金山を管理する金山衆は、在地武士団を形成して塩山市内上萩原、下於曽、熊野方面に住居を構えていた。
(看板資料より)
|