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山梨県甲州市

向嶽寺

2013年09月21日

大本山向嶽寺の沿革
向嶽寺は山号を塩山と称し、塩ノ山南麓に所在する。臨済宗向嶽寺派の大本山で、開山は抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、開基はときの守護武田刑部大輔信成である。
抜隊禅師は永和4(1378)年に甲斐に入り、はじめ市内竹森の地に草庵を結んだが、康暦2(1380)年、武田信成から寺地の寄進を受け、向嶽庵を命名し創建した。寺名は「富嶽に向かう」からきている。
禅師の門下には俊英が輩出し、武田家歴代、特に晴信の厚い保護を受け、寺領が安堵され法度・禁制が出された。
江戸時代に入るとたびたび火災に遭い、天明6(1786)年の大火で仏殿以下を焼失。近年では大正15年に天明の大火以降再建された大方丈を焼失しているが、復旧事業によりかつての隆盛が甦りつつある。
明治5(1872)年に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、同41年管長を置いて名実ともに別派独立の大本山となった。創建以来600年の歴史を持つ当山の有する文化財は国宝以下24件を数える。
(看板資料より)

塩ノ山について
塩ノ山は塩山市街地の中央に位置する孤山で、標高554.7メートル、塩山温泉街からの比高143メートルを測る。
名前の由来については諸説あるが、平地にポツリとあるので「四方からみえる山:しほうのやま」からきていると云われている。さらに康歴2(1380)年抜隊得勝禅師が向嶽寺(当時は向嶽庵)を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。現在、重要文化財向嶽寺中門に架かる扁額に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
『古今和歌集』に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とそなく」という歌がある。この歌は「賀部」に含まれ、めでたい歌としてよく知られていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地名となりその後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。さらに室町時代になると、京都から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵」のように美術工芸品の意匠にまで発展した。この意匠では、差出の磯は荒波が立つ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景を楽しめる場となっている。
(看板資料より)

天正10(1582)年に田野で武田勝頼、信勝が滅んだ後、この向嶽寺の大杉の根元に楯無の鎧が埋められた。その後徳川家康によって掘り出されて菅田天神社に納められたといわれている。



2005年08月27日

大本山向嶽寺の沿革
向嶽寺は山号を塩山と称し、塩ノ山南麓に所在する。臨済宗向嶽寺派の大本山で、開山は抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、開基はときの守護武田刑部大輔信成である。
抜隊禅師は永和4(1378)年に甲斐に入り、はじめ市内竹森の地に草庵を結んだが、康歴2(1380)年武田信成から寺地の寄進を受けて、向嶽庵と命名し創建した。寺名は「富嶽に向う」からきている。
禅師の門下には俊英が輩出し、武田家歴代、とくに晴信の厚い保護を受け、寺領が安堵され法度・禁制が出された。
江戸時代に入るとたびたび火災に遭い、天明6(1786)年の大火で仏殿以下を焼失、近年では大正15年に天明の火災以降再建された大方丈を焼失しているが、復旧事業によりかつての隆盛が甦りつつある。
明治5(1872)年に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、同41年管長を置いて名実ともに別派独立の大本山となった。創建以来600年の歴史をもつ当山の有する文化財は、国宝以下24件を数える。
(看板資料より)

塩ノ山について
塩ノ山は塩山市街地の中央に位置する孤山で、標高554.7メートル、塩山温泉街からの比高143メートルを測る。名前の由来については諸説あるが、平地にポツリとあるので「四方からみえる山:しほうのやま」からきていると云われている。さらに康歴2(1380)年抜隊得勝禅師が向嶽寺(当時は向嶽庵)を開山した際、「しほうのやま」に「塩山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。現在、重要文化財向嶽寺中門に架かる扁額に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
『古今和歌集』に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」という歌がある。この歌は「賀部」に含まれ、めでたい歌としてよく知られていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地名となりその後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。さらに室町時代になると、京から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵」のように美術工芸品の意匠にまで発展した。この意匠では、差出の磯は荒波がたつ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景を楽しめる場となっている。
(看板資料より)

天正10(1582)年に田野で武田勝頼、信勝が滅んだ後、この向嶽寺の大杉の根元に楯無の鎧が埋められた。その後徳川家康によって掘り出されて菅田天神社に納められたといわれている。



2001年02月18日

臨済宗向嶽寺派大本山で、開山は恵光大円禅師、開基は武田信成である。恵光大円禅師は永和4年(1378年)に甲斐に入り、1380年に武田信成から寺地の寄進を受けて向嶽庵として創建した。富嶽に向うから向嶽と名付けられたという。
塩山付近では最も古い歴史をもっているとのこと。

向嶽寺の隣にあった秋葉神社

 
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