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山梨県甲州市

山本勘助不動尊

2013年09月21日

山本勘助不動尊の由来
山本勘助不動尊のお堂は三日市場と小屋敷の人たち20数戸の家が4戸1組の輪番制で守り、祭りの当番を行っている。堂内には総高40cmの勘助を模した不動明王像と矜羯羅・勢多迦の2童子が安置されている。
明治23年お堂を再建したときに恵林寺の円応老師揮筆による「勘助不動尊再建有志名簿」には、天正年間(1573〜1592)に勘助を慕う信心深い仏師が像を刻んで安置したと伝え、毎年1月28日と7月28日の2回の祭典を行ってきたが、今は1月のみ行われている。盛時には幟を立て縁日も出て近郷近在からも多くの人がお参りをした。祭りには「山本不動尊」とある御札と、勘助不動尊のお姿を版木で刷った2枚の御札が配られる。
昔は栄昌院の修験僧が滝之上地区の滝で修業したり、護摩祈祷を行った。当地域の家には川中島の合戦で用いたと伝える「法螺貝」が伝わり、以前はこの法螺貝の音を合図に祭りは行われていた。
『甲斐国社記・寺記』によれば、栄昌院は本山派の修験に属し、恵林寺領内に護摩堂があった。開山の興徳坊教海は恵林寺の鎮守の別当を勤め、信玄が恵林寺参拝の折武田不動尊の前で武運長久の柴燈護摩を修したと伝えている。
従って、この勘助不動尊のお堂は、栄昌院の護摩堂と見られるが、明治5年の修験廃止の布告によりお堂だけが残され、勘助不動尊は地域の人々により今日まで護られてきたのである。
(看板資料より)

 

 
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