恵林寺 |
2017年04月08日 |
武田信玄の墓
不動明王
信玄公祭りに行く前に朝一番で立ち寄りました。
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2013年09月21日 |
乾徳山恵林禅寺の沿革 |
重要文化財 恵林寺四脚門
丹塗りの門であることから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、桧皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。 |
山梨県指定文化財 恵林寺三門附棟札一枚
構造は、一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門、無相門、無願門の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。 |
天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場
天正10(1582)年4月3日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門に集め火をつけた。碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあり、遺骨が埋葬されている。 |
開山堂
信玄と父信虎 信玄の人となり |
大庫裡
武田晴信入道信玄 |
うぐいす廊下
武田信玄 |
武田不動尊
乾徳山恵林寺の霊殿に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。天正10年の織田軍の恵林寺来攻には幸に火を免れた。 |
武田晴信の墓
山梨県指定史跡 武田晴信の墓 |
武田家臣供養塔
柳沢吉保夫妻の墓
柳沢吉保夫妻の墓 |
開基二階堂道蘊の供養塔
1330年屋敷を寄進せられ恵林寺となる。(看板資料より)
史蹟名勝 恵林寺庭園
国指定になる史蹟名勝恵林寺庭園は鎌倉時代後期の元徳2(1330)年、時の名僧夢窓国師により当山が開創せられし時国師自らの手を染めし禅林の名園なり。国師この10年の後京師にて天龍寺西芳寺庭園を築造せられ共に国師作造の代表庭園として著名なり。本庭園は本来禅の修業道場にして濃くし築庭の深渕なる奥秩父連峰を借景となす遠望を秘め森羅万象を包含せし意図瀝然たり庭内に臥竜松など十景を映じ左右に雄瀑布、雌瀑布を配し、上段を枯山水、下段は心字を中心となす池泉回廊式なり。江戸時代甲斐国主柳沢美濃守吉保は勅許にて甲斐八景を遊び外山前中納言光顕卿をして当庭園を以下の如く嘆詠せり。 |
武田信虎公の墓
武田信虎公は甲斐守護信縄公ノ嫡男ニシテ当山中興開基大檀越信玄公ノ御父ナリ永正4年家ヲ嗣グヤ国乱ヲ戦定シ甲府ヲ開創シ嫡男信玄ノ大経綸ノ緒ヲ開キシ名将ナリ駿河退隠ノ後モ京畿ニ遊説シテ今嫡ノ為ニ策セルモ天正2年3月5日信州高遠城ニ病没セラル享年81同4年4月16日令孫勝頼公先考信玄ノ葬禮ヲ當山ニ執行スルヤ併セテ祖父信虎公追福ノ塔ヲ造立セラル此地モト信縄公開基ノ當山塔頭長興院址ナリ然ルニ壬午4月3日織田ノ兵焚ニ一山焼亡シ両公ノ塔亦被火セリ越テ寛文12年信玄公百年諱ニ荊山大和尚信玄公ノ塔ヲ再建セルモ信虎公塔ニハ至ラザリキ今茲信玄公生誕450年ノ機ヲトシ
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2006年03月12日 |
重要文化財 恵林寺四脚門
丹塗りの門であることから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、桧皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。 |
山梨県指定文化財 恵林寺三門附棟札一枚
構造は、一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門、無相門、無願門の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。 |
観桜の詠歌 大僧正信玄 桜花らんまんのころ快川国師の招きで |
天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場
天正10(1582)年4月3日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門に集め火をつけた。碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあり、遺骨が埋葬されている。 |
開山堂
うぐいす廊下
武田信玄 |
武田不動尊
乾徳山恵林寺の霊殿に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。天正10年の織田軍の恵林寺来攻には幸に火を免れた。 |
開基二階堂道蘊の供養塔
1330年屋敷を寄進せられ恵林寺となる。
史蹟名勝 恵林寺庭園
国指定になる史蹟名勝恵林寺庭園は鎌倉時代後期の元徳2(1330)年、時の名僧夢窓国師により当山が開創せられし時国師自らの手を染めし禅林の名園なり。国師この10年の後京師にて天龍寺西芳寺庭園を築造せられ共に国師作造の代表庭園として著名なり。本庭園は本来禅の修業道場にして濃くし築庭の深渕なる奥秩父連峰を借景となす遠望を秘め森羅万象を包含せし意図瀝然たり庭内に臥竜松など十景を映じ左右に雄瀑布、雌瀑布を配し、上段を枯山水、下段は心字を中心となす池泉回廊式なり。江戸時代甲斐国主柳沢美濃守吉保は勅許にて甲斐八景を遊び外山前中納言光顕卿をして当庭園を以下の如く嘆詠せり。 |
信玄と父信虎 信玄の人となり 武田晴信入道信玄 |
武田家臣供養塔
今回の一番の目的がこの武田家臣団供養塔でした。今まで何度も恵林寺を訪れているにもかかわらず、武田晴信の墓見学後いつも素通りしていた所でした。その後、各地にある武田家の家臣達にゆかりのある史跡を訪問した際に彼らの墓が恵林寺にもあるとの記録が多数あったのです。そして今回は特に意識して見学することにしていました。ところが上の写真のように立ち入ることはできないし、どれが誰の供養塔なのか確認することができなかったので大庫裡の入口のところで聞いてみたところ、武田家臣供養塔の配置図をコピーしていただくことができました。 |
武田信虎公の墓
武田信虎公は甲斐守護信縄公ノ嫡男ニシテ当山中興開基大檀越信玄公ノ御父ナリ永正4年家ヲ嗣グヤ国乱ヲ戦定シ甲府ヲ開創シ嫡男信玄ノ大経綸ノ緒ヲ開キシ名将ナリ駿河退隠ノ後モ京畿ニ遊説シテ今嫡ノ為ニ策セルモ天正2年3月5日信州高遠城ニ病没セラル享年81同4年4月16日令孫勝頼公先考信玄ノ葬禮ヲ當山ニ執行スルヤ併セテ祖父信虎公追福ノ塔ヲ造立セラル此地モト信縄公開基ノ當山塔頭長興院址ナリ然ルニ壬午4月3日織田ノ兵焚ニ一山焼亡シ両公ノ塔亦被火セリ越テ寛文12年信玄公百年諱ニ荊山大和尚信玄公ノ塔ヲ再建セルモ信虎公塔ニハ至ラザリキ今茲信玄公生誕450年ノ機ヲトシ |
大小切騒動と殉難の碑
大小切騒動とは、武田信玄以来甲州だけで用いられていた大小切税法を、明治新政府が税制統一のため廃止しようとしたことが発端で、これに反対する山梨・八代・巨摩三郡の農民が反対して起こした騒動である。 |
始祖 秋山太郎光朝公之供養塔
秋山氏の始祖光朝公は清和天皇6代の後胤、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の曾孫加賀美次郎遠光の嫡男で巨摩郡秋山村に拠って秋山太郎と号した。
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山梨県高根沢町(清里高原)に用事があったので出かけてきましたが、帰りに恵林寺に寄ったところ昨日は武田信玄の命日で恵林寺信玄公忌が行われたそうで今日は武田晴信(信玄)の墓を参拝することができました。 |
武田晴信の墓
山梨県指定史跡 武田晴信の墓 |
清里からの帰路、塩山の恵林寺に寄ることにしました。中央高速勝沼インターチェンジでおりて北に向かい到着。正面は既に車でいっぱいで駐車できず、しかたなく放光寺に向かいました。途中恵林寺の参道にはたくさんの出店ができてるのが見え、更に大きな花火の音がしてきました。恵林寺は今回で4、5回目ですがこんなににぎやかなのは初めてです。放光寺の方向から恵林寺の裏側にある駐車場に行くことができます。ということで恵林寺の裏から入りました。 |
拝観料300円支払って入館
入口には大きな湯釜があります。
うぐいす廊下
うぐいす廊下は静かに歩くように!との注意書きがありますが、これはどういう意味なのでしょうか?もちろん足を一歩進めるごとにキュッキュッと音がします。多分ドタバタと歩かないようにということでしょうか?なんで恵林寺にこんなものがあるのかは説明がないので良くわかりませんが中には檀家?の位牌?や仏壇?のようなものがいくつか置いてありました。この先に武田不動尊があります。 |
武田不動尊 |
柳沢吉保夫妻の墓
柳沢吉保夫妻の墓 |
奥の庭園のしだれ桜
心頭滅却すれば。。。の三門
桜が満開、出店多数出店、武田24将の旗が点在し、今日はいつもと違う恵林寺でした。
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2000年4月15日 |
塩山の恵林寺に立ち寄る。
ここには、「ほうとう」を食べに来ましたがいまいちでした。
「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」で有名な三門
恵林寺奥の庭園
少々物足りなかったので帰りに談合坂S.Aにて「キムチほうとう」を食べました。
1999年09月05日 この恵林寺は武田信玄の葬儀が行なわれたところであり、信長が甲斐に攻め込んだときに快川紹喜が「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言って焼身自殺をしたところとして有名。風林火山の旗もあるし、宝物館には古文書等の資料がたくさん保存されていた。武田信玄の墓もあるし、柳沢吉保の墓もあった。お土産屋も充実しているし、ほうとうを食べられる店もある。ここに来れば武田信玄に関しては何でもそろっている。
乾徳山恵林寺 |
三門
1984年03月29日 |
恵林寺三門
信玄の菩提寺にふさわしい威厳をもつ乾徳山恵林寺の総門をくぐって杉並木の参道をすすむと恵林寺赤門に出る。別に四脚門とも呼ばれる国の重要文化財である。元徳2(1330)年、二階堂堂蘊が南北朝時代の名僧夢想国師を迎えて深く帰依し、寺は隆盛を極めた。天正10(1582)年武田滅亡の直後、織田信長の命令で伽藍は焼き討ちされたが、この赤門だけは厄をのがれている。 |