福田寺 |
2014年03月23日 |
武田信玄と福田寺 |
武田信玄公塚
当寺(応永9年、1402年創建、臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元(1573)年野田城を攻略のとき、病におかされた公は帰国の途次当寺のおいてしばし療養の後、卒去されたと伝えられる。但しその後再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である。 |
馬場信房公塚
2004年09月20日 |
臨済宗妙心寺の末寺で応永9(1402)年の開山と伝えられています。天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に冒され、本国に引き上げる途中、この寺で療養したと伝えられています。本堂脇の池のほとりに墓が建てられています。 信玄公が野田城攻略後、病が重くなって信州方面に帰る道のりは、鳳来寺から、田口、津具、根羽、駒場とのことだったのでこの日は逆コースをたどり、根羽から稲武(当時は武節)には行かず、津具村から田口に向いました。田口というのは現在は設楽町役場周辺ですので、設楽町役場で武田信玄に関する史跡について問い合わせました。しかし観光案内のパンフレットをいただいただけであまり詳しい話を聞くことはできませんでした。ところがそのパンフレットを見ていると設楽町役場のすぐ近くに武田信玄の墓という記載があったのでそこに行ってみることにしました。役場の裏に福田寺という寺があって向って本堂の左側の池の奥に武田信玄と馬場信房の塚がありました。お寺を掃除していた方にも聞いてみましたが詳しいことは分からないとのことでした。 |
武田信玄公塚
当寺(応永9年、1402年創建、臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元(1573)年野田城を攻略のとき、病におかされた公は帰国の途次当寺のおいてしばし療養の後、卒去されたと伝えられる。但しその後再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である。 長篠合戦余話によると、田口の福田寺で信玄公が死去するまで、信玄公の側室が世話をしていたが、死後、三人の子供とともに袋井に移って福田寺としたらしい。近年、袋井からその子孫の方が先祖からの口伝をもとに、田口の福田寺を訪れたとのことであり、武田信玄の終焉の地としての説を裏付けるかと思われる話題だったらしい。 |
馬場信房公塚