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愛知県設楽町

福田寺

2014年03月23日

武田信玄と福田寺
武田信玄と当寺との関係については、卒去の地、埋葬の地を含めて、その真偽のほどは判然としないが、当寺に伝えられているところによると次のとおりである。
「当寺は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元(1573)年野田城攻略のとき、病におかされた公は、帰国の途次当寺においてしばし療養の後卒去された。天正元年6月26日、甲州太守武田大膳大夫信玄、法性院殿機山玄公大居士、当所尊体を埋む」
周知のとおり、信玄公卒去の地については諸説あるが、その中のニ三の説を記しておくことにする。
「野田戦記」によれば、
保養のためとて野田御引上げの後は、長篠に暫く御滞留あり。夫より御帰国の沿途鳳来寺へ御参詣あらんとて、近習の士跡部美作の肩に懸りて御登山あり、衆徒に御対面の後、礼盤に上りて静かに薬師の呪を唱え懇祷あり。終りて瀧本坊に於て休息し給う。小食を奉りたれども進み給わず、医王院仙正を召して勧盃あり、又僧へも一礼ありて、習日鳳来寺を下り給い、参州設楽郡田口村福田寺に数日逗留相成り、御所労を養い給いしが、御気力次第に衰弱、御療養その効なく、4月12日の夜半、老雄機山公は53才を一期とし終に永き眠りに入り給いぬ。
翌日帰陣の時、新櫃一個を行列の跡に持たせ、隊伍を整え信濃に行けりという。この櫃こそ信玄公の死骸なりといい伝えり。
上の説によれば、卒去したのは当寺であり、埋葬はされていないことになる。
次に「鳳来寺由来」より引用すれば、
実は天正元年野田城合戦の時、菅沼定盈が城より放つ鉄砲に中り玉い、保養のため、長篠の城に入り暫し逗留、それより鳳来寺へ参詣、瀧本坊に入り、仏前に向い薬師を祈り玉い、それより田口村福田寺という寺にて逝去(中略)「甲陽軍鑑」に根羽にて卒去とはそらごとなり。
次に「信玄公の後胤、村松八右衛門の祖先よりの口伝」(静岡県袋井市堀越)というのがあるので紹介しておく。
信玄公は、三河田口福田寺客間において雄途空しく死去した。最後の側室、長野の小県郡禰津の豪族、禰津元直の女某が、終始側近に在って世話をしていたが、信玄公の病死により、郷里にも帰れず、正室や1号夫人や子供の居る甲府にも帰れず、止むなく某女は公の遺髪と、公の目の霊薬6個をたずさえ、護りの士、付添え3子を同伴して、天正元年7月頃、堀越の里に落人として帰農し、宅地内に祠を建てて遺髪を埋葬し、ひそかに公を祀りつつ3子の成長を待った。そしてその祠堂を「内寺福田寺」と称した。
その後90余年を経て、ようやく戦国のほとぼり薄らぐのをみて、その子息3家が協力して寺を建て「福田寺」と称し、海蔵寺7世光存和尚を開山に迎えた。
しかし、明治初年の廃仏毀釈のため寺のご朱印はとりあげられ、明治34年、福田寺の牌座は海蔵寺に引き取られた。
なお、村松家には今日も信玄公が愛用した突眼の霊薬と、側室の守り刀であった懐刀が現存するという。
(説明資料より)


武田信玄公塚

当寺(応永9年、1402年創建、臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元(1573)年野田城を攻略のとき、病におかされた公は帰国の途次当寺のおいてしばし療養の後、卒去されたと伝えられる。但しその後再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である。
尚、当寺の記録によれば、
天正元年6月26日甲州太守武田大膳大夫信玄法性院殿機山玄公大居士当所尊体を埋む。とある。
(看板資料より) 


馬場信房公塚



2004年09月20日

臨済宗妙心寺の末寺で応永9(1402)年の開山と伝えられています。天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に冒され、本国に引き上げる途中、この寺で療養したと伝えられています。本堂脇の池のほとりに墓が建てられています。
(看板資料より)

信玄公が野田城攻略後、病が重くなって信州方面に帰る道のりは、鳳来寺から、田口、津具、根羽、駒場とのことだったのでこの日は逆コースをたどり、根羽から稲武(当時は武節)には行かず、津具村から田口に向いました。田口というのは現在は設楽町役場周辺ですので、設楽町役場で武田信玄に関する史跡について問い合わせました。しかし観光案内のパンフレットをいただいただけであまり詳しい話を聞くことはできませんでした。ところがそのパンフレットを見ていると設楽町役場のすぐ近くに武田信玄の墓という記載があったのでそこに行ってみることにしました。役場の裏に福田寺という寺があって向って本堂の左側の池の奥に武田信玄と馬場信房の塚がありました。お寺を掃除していた方にも聞いてみましたが詳しいことは分からないとのことでした。


武田信玄公塚

当寺(応永9年、1402年創建、臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元(1573)年野田城を攻略のとき、病におかされた公は帰国の途次当寺のおいてしばし療養の後、卒去されたと伝えられる。但しその後再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である。
尚、当寺の記録によれば、
天正元年6月26日甲州太守武田大膳大夫信玄法性院殿機山玄公大居士当所尊体を埋む。とある。
(看板資料より)

長篠合戦余話によると、田口の福田寺で信玄公が死去するまで、信玄公の側室が世話をしていたが、死後、三人の子供とともに袋井に移って福田寺としたらしい。近年、袋井からその子孫の方が先祖からの口伝をもとに、田口の福田寺を訪れたとのことであり、武田信玄の終焉の地としての説を裏付けるかと思われる話題だったらしい。

馬場信房公塚


信玄塚
恵林寺
龍雲寺
馬場美濃守信房の墓
自元寺
馬場美濃守討死之地
馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓) 
橋詰殿戦場
馬場塚
馬場美濃守信有墓所

 

 
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