←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

愛知県設楽町

田峯内乱の首塚

2014年03月23日

城主菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部小輔)は天正3(1575)年長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守中の将である叔父菅沼定直と次席家老今泉道善(孫右衛門)等は城門を固く閉ざし開けようとせず、仕方なく勝頼を導き武節城に遁走した。その後飯田に逃れて一年を経過する。
翌、天正4(1576)年7月14日未明、菅沼定忠主従は自分の城である田峯城を急襲し前年の遺恨やるかた無く、老若男女幼少を問わず、手当り次第に96名を惨殺する。中でも首謀格の今泉道善(手習いの師匠)の生首を鋸で引き落とすという常軌を逸する殺害をおこなった。主だった者の首をこの作手街道の辻に晒した。いつの頃からかこの場所を首塚と呼ぶようになった。
現在、ここには五輪の塔等が20基あるが、それが誰のためのものであったか定かでない。石塔の型式上では戦国時代から江戸時代にかけてのものと思われる。
(看板資料より)



2004年09月20日

城主菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部小輔)は天正3(1575)年長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守中の将である叔父菅沼定直と次席家老今泉道善(孫右衛門)等は城門を固く閉ざし開けようとせず、仕方なく勝頼を導き武節城に遁走した。その後飯田に逃れて一年を経過する。
翌、天正4(1576)年7月14日未明、菅沼定忠主従は自分の城である田峯城を急襲し前年の遺恨やるかた無く、老若男女幼少を問わず、手当り次第に96名を惨殺する。中でも首謀格の今泉道善(手習いの師匠)の生首を鋸で引き落とすという常軌を逸する殺害をおこなった。主だった者の首をこの作手街道の辻に晒した。いつの頃からかこの場所を首塚と呼ぶようになった。
現在、ここには五輪の塔等が20基あるが、それが誰のためのものであったか定かでない。石塔の型式上では戦国時代から江戸時代にかけてのものと思われる。
(看板資料より)

ここは現在のアスファルトの道路の峠の所から右に入っていく入口があり、そこから歩いて行きますが下の写真のように延々と「首塚地蔵尊」の看板があり、薄気味悪い雰囲気でした。行き止まりのところに上の写真のようなお粗末な屋根付きの首塚があり、大きな案内板もありました。事前に田峯の内乱の話を聞いていたので、首塚の前に立ったときは怨念のようなものを感じたような気になってしまいました。武田家側からみれば、武田勝頼を見放した菅沼定直と次席家老今泉道善らが殺されてさらされた首塚なのでいわば敵方の首塚であり、軽い気持ちで参拝してきたのですが、帰宅後体調を崩してしまいここの首塚でのことがどうしても気になってしまい後悔しました。


三十数基の古石塔(一石五輪塔など)および、場所が指定の文化財です。この場所は長篠合戦直後、城主菅沼定忠に謀叛し翌4(1576)年、定忠の夜襲によって捕えられ処刑された、九十六人の首をさらした所といわれています。古石塔の最古は推定十六世紀末です。
(車道の峠道にある石碑より)

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→