信玄塚 |
2014年03月23日 |
信玄塚・宝篋印塔の由来 |
2008年03月16日 |
信玄塚には以前一度来たことがありましたが、その後実は本当の信玄塚は国道の東側に下ったところにあり、俗にいう信玄塚の看板のところにあるのは宝篋印塔であることを知り、今回それを確かめるべく訪れたのでした。後で自分の書き写した現地の案内文章を読み返してみるとちゃんとそういう内容のことが書かれていました。 |
信玄塚(武田一族供養塔)
その後、根羽村役場に立ち寄って信玄塚について聞いてみたところ、住民課の課長さんが日直をしていて親切に対応してくださいました。地元の歴史に詳しい人を紹介してもらえるとのことでしたが時間もなかったので根羽村の村誌を見せてもらうことにしました。 |
信玄塚周辺
信玄橋
また近所には、信玄橋や信玄民宿などもありました。特に信玄民宿は今度宿泊してみたいと思って行ってみたのですが誰もいなかったようで詳細については良く分かりませんでした。 |
信玄民宿
2004年9月20日 |
信玄塚・宝篋印塔の由来 |
宝篋印塔
信玄塚の由来 |
案内板を読んでいると、宝篋印塔と信玄塚は別のもので、「信玄塚は国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている」とのことなので、信玄塚は国道153号線の工事で取壊されてしまったということなのでしょうか? |
一般国道153号線(三州街道)は、中馬街道、塩の道として多くの歴史を作ってきました。特に戦国時代においては多くの武将が全国制覇を夢みてその軍勢を動かしました。元亀3年甲斐国の国主武田信玄は、3万5000の軍勢を率い、三方ヶ原にて徳川家康を打ち破りましたが、夢なかばにして病に倒れ、この地において没したといわれております。
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