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長野県根羽村

信玄塚

2014年03月23日

信玄塚・宝篋印塔の由来
信玄塚
武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の上村において他界された。(甲陽軍鑑より)
その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。信玄公が葬られているとされる信玄塚は村史跡に指定されており(昭和56年指定)、現在の国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
宝篋印塔
寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。花崗岩製で高さ1.84m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主、大名級のものであるとされている。
(看板資料より)



2008年03月16日

信玄塚には以前一度来たことがありましたが、その後実は本当の信玄塚は国道の東側に下ったところにあり、俗にいう信玄塚の看板のところにあるのは宝篋印塔であることを知り、今回それを確かめるべく訪れたのでした。後で自分の書き写した現地の案内文章を読み返してみるとちゃんとそういう内容のことが書かれていました。
現地では確かに本当の信玄塚を発見することができて、以前沸き起こった「信玄塚は国道153号線の工事で取壊されてしまったということなのでしょうか?」という疑問は解決されました。
また、近所の方にお話を聞かせてもらうこともできました。それによると、もともと宝篋印塔は今の信玄塚のところにあったが、山の上に移動されたとのこと。信玄公の首は甲府に持って行っただろうが胴体は今の信玄塚のあたりに埋められたという言い伝えがあるとのことでした。しかし国道の工事で掘り起こされてしまい今ではその真偽は確かめることはできないとのことでした。また近くには以前まで大きな木の根の切り株があったそうで、信玄公がついてきた杖を地面にさしたものが成長したものであるとのこと話も伝わっているとのことでした。その木は今はもうありませんでした。

信玄塚(武田一族供養塔)

その後、根羽村役場に立ち寄って信玄塚について聞いてみたところ、住民課の課長さんが日直をしていて親切に対応してくださいました。地元の歴史に詳しい人を紹介してもらえるとのことでしたが時間もなかったので根羽村の村誌を見せてもらうことにしました。

明治30年駒場伍和丸山の武田家ゆかりの高坂代太郎がこの宝篋印塔を模して、根羽村石工、石原虎次郎に製作依頼したものは、高さ198cmであるので、横畑の原型は198cmと見るべきであろう。なお、高坂家からは同年から信玄塚供養基金として、当寺としては大金である100円を横畑・取手・中野地区に贈り、その利子で毎年供物を賄っていた。
(根羽村村誌記載文章より)

根羽村の村誌によると信玄塚には武田信豊の供養碑もあるとのことでした。「武田之一族・武豊之霊」と彫られた墓石があるとのことでちょうど一番大きな墓石の前にあるものだと思います。役場についてから村誌を見たので現地では実際にはその墓石を確認することはできませんでした。
根羽村村誌では、織田信長が天正10年3月13日に根羽村に入り、14日には平谷から浪合に行ったところで武田勝頼父子の首実検をしたとのことだが、「御宿監物の長状」では信玄公の弟典厩信繁の子武田信豊の首共々、根羽において首実検したと記しているからかもしれないが、勝頼父子の自刃が3月11日であり、その後に武田信豊は佐久小諸城で憤死しているので勝頼父子と共に根羽で首実検されるのは不可能なことであり、誤伝による供養塔ではないか?とのことでした。
更に詳しいことについては、一ノ瀬義法著「武田信玄終焉地考」に書かれていますので是非読んでみてください。

信玄塚周辺


信玄橋

また近所には、信玄橋や信玄民宿などもありました。特に信玄民宿は今度宿泊してみたいと思って行ってみたのですが誰もいなかったようで詳細については良く分かりませんでした。

信玄民宿



2004年9月20日

信玄塚・宝篋印塔の由来
信玄塚
武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の上村において他界された。(甲陽軍鑑より)
その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。信玄公が葬られているとされる信玄塚は村史跡に指定されており(昭和56年指定)、現在の国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
宝篋印塔
寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。花崗岩製で高さ1.84m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主、大名級のものであるとされている。
(看板資料より)

宝篋印塔

信玄塚の由来
武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくないので、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、元亀4(1573)年4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の上村において他界された。(「甲陽軍鑑」より)
その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方50mの所にある。
寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のためこの宝篋印塔を建立した。降って宝暦(1751〜1764)の頃、横旗、中野、砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の形式をそなえ、城主、大名級のものであるとされている。
(看板資料より)

案内板を読んでいると、宝篋印塔と信玄塚は別のもので、「信玄塚は国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている」とのことなので、信玄塚は国道153号線の工事で取壊されてしまったということなのでしょうか?
長篠合戦余話によると、道の上に八幡社があり、道の下に墓地があり、信玄の墓といわれていた石塔はその墓地にあったが、明治の頃に新しい道路が墓の上を通るようになってから恐れ多いというので石塔は道の上の八幡社に移されたとのこと。

一般国道153号線(三州街道)は、中馬街道、塩の道として多くの歴史を作ってきました。特に戦国時代においては多くの武将が全国制覇を夢みてその軍勢を動かしました。元亀3年甲斐国の国主武田信玄は、3万5000の軍勢を率い、三方ヶ原にて徳川家康を打ち破りましたが、夢なかばにして病に倒れ、この地において没したといわれております。
暮れゆく意識の中で、信玄は京に押し上がる風林火山の旗を見たと言われております。私達は、一般国道153号線の整備にあたり、この信玄の夢を再現しました。
楽しいドライブのひととき、信玄のロマンにタイムスリップしてみてはいかがですか。
(国土交通省案内板より)

 

 
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