←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県下條村

吉岡城

2004年3月13日

吉岡城と下條氏
吉岡城は文明7(1475)年室町時代中期に下條氏第6代康氏によって築城され、以降7代120年間本拠地とした城である。城郭は下條氏の勢力拡大に伴って拡張し完成された形状は連郭式平山城で東西約700メートル、南北約30〜200メートルに及び、中世後期の城としては規模も大きくその特徴を有している。城跡は部分的には埋没し崩されているが当時の輪郭を十分に伝えている。遺構は空掘による4つの郭と城下町、馬場、弓場等からなり、枡形、上町、屋敷町、大手、大手裏、竪町、横町等の地名と井戸、四脚門が残っている。
下條氏は甲斐源氏小笠原氏の庶流である。
初代頼氏:室町時代初期小笠原氏の麾下として大沢(古城)に来り、この地方を支配したが5代にしてその系は絶えた。
6代康氏:松本小笠原政康の子。文明2(1470)年、下條家を継ぐ。居城を大沢から吉岡に移し根拠地とした下條氏中興の祖である。文亀3(1503)年没。
7代家氏:信濃守護小笠原氏の代官として治世を安定させ中央の文化を招来し、重文大山田神社社殿等今日にその遺業を伝えている。天文3(1534)年没。
8代時氏:松本小笠原氏と謀り松尾小笠原氏、新野の関氏を攻略し伊那谷西南部一帯を支配した。弘治元(1555)年没。
9代信氏:武田信玄の妹を妻に迎え信玄の伊那先方衆として武功を立てるが、天正10(1582)年2月織田信長の信濃攻略に際し家老の謀叛にあい長男信正(10代)とともに三河に逃れたが彼の地に没した。
11代頼安:信氏の二男。天正10年6月2日本能寺の変に乗じ徳川家康の助勢を得て吉岡城を奪還したが天正12年正月松尾城において謀殺された。
12代牛千代:信正の長男。家康に従属したが家中の内紛や謀叛が家康の詮議を招き天正15(1587)年3月改易となり下條氏は事実上滅亡し、一族郎党は諸方の大名家に仕え四散するところとなった。
その後、吉岡城は幕府領の代官所等にあてられていたが寛永年間旗本知久氏によって取壊された。
(下條村教育委員会看板資料より)

吉岡城址公園


兜塚

兜塚の由来は明らかではないが、江戸時代に書かれた書物によると築城の時石室の塚があり、兜と鎧の札を掘り出したとあるから吉兆として城の聖地に祀りその名を付けたものであろう。他にいくつかの伝説がある。昭和20年頃まで円形の塚があって沢山の南天が繁っていた。
(下條村教育委員会看板資料より)

樋掛石

吉岡城のあった頃、城下町の生活用水や灌漑用水は濁沢の水を鎮西から取り入れ潤していた。低地の上河原通りは櫓を組んで樋を掛け、この石に乗せたと伝えられている。
(下條村教育委員会看板資料より)

 


飯田方面から国道151号線を下條村に向って進むと『ひさわ』の交差点のところに、吉岡城址公園の大きな案内板がありその案内の通り左折すると目的地に到着することができます。本郭から国道を見ると分かりますが、ちょうど国道151号線が吉岡城を分断しています。
本郭は吉岡城址公園になっていて車もここに駐車させることができます。ゲートボール場?が整備されていますが、吉岡城址の碑や兜塚、下條氏歴代供養塔、土塁跡などがあり、その奥は堀?を隔てて殿郭で現在は寺尾神社になっています。その先は更に出郭などがあるそうですがそこまでは行きませんでした。逆方向は国道151号線を隔ててニノ郭の部分で、付近には二の門跡の案内板もありました。
信玄の伊那谷攻略については今まであまりよく分からなかったのですが、高遠城、福与城を落とした後は鉾先を村上氏、小笠原氏に向け、彼らとの攻防がひと段落した後に一気に攻略しています。高遠城、福与城を落としたことによって深志、松尾の小笠原氏を分断し、本家を滅ぼせば下伊那は自然と崩壊していくと考えたのでしょうか?結果的には川中島合戦の前に後方の憂いを取り除くような感じで木曾とともに滅ぼされてしまっています。

下條氏歴代供養塔

寺尾神社付近の石垣?

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→