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静岡県静岡市

日影沢金山(安倍金山)

2004年12月19日

梅ヶ島に金山があるということは知っていましたが、安倍金山という名前で探していても発見できませんでした。地元では日影沢金山というらしく、日影沢金山=安倍金山なのかどうかも聞いてみましたが安倍金山とは言わないそうです。結局今回行ってきた日影沢金山が安倍金山だったのかどうかは未だに分かりませんが、兎に角坑道をみることができるし、驚いたことに金を掘っていた金堀衆達の墓が残されていました。それ以外にも信仰の対象であった山神様や奉行屋敷跡、住居跡なども残されており、一周するとゆっくり歩いてもちょうど1時間半くらいでまわれるので、ハイキングにはおすすめのコースです。黒川金山ほど歩くことは無く神秘的ではありませんが、津具金山よりは見ごたえのあるところといった感じのところですかね。
場所はなかなか分からなかったのですが、静岡市内から梅ヶ島に向う道路を北上し、赤水の滝を過ぎてしばらく行ったところに左側に梅ヶ島新田温泉・黄金の湯があり、橋を渡って川の反対側(向って右側)に金山温泉の施設があるのですが、金山温泉を通り越して更に進むと日影沢親水園(魚魚の里)というのがあるのでそこに車を止めて歩いていくことができます。駐車場は手前には舗装されたものがありますが、日影沢親水園を通り越したつきあたりのところに魚魚の里の駐車場というものがありますので、私はそこに車を止めました。そこの駐車場の入口のところに上の写真のような看板がありますのでこれは印刷して持っていくことをお勧めします。途中何ヶ所か道が分かれていて分からなくなりそうになったので私はこの地図を写真に撮っておいて道が分からなくなったら何度かデジカメで表示させて道を確認して行きました。

遊歩道

遊歩道は全体的にかなりきれいに整備されているので特別な靴を用意する必要はないでしょう。遊歩道入口から下の写真の丸太橋までゆっくり写真を撮りながら歩きましたが10分余りで到着しました。

丸太橋


庚申塔

八幡神社跡と庚申塔
八幡神社は慶長年間の盛山時に建られたもので、志村氏の先祖が甲州より来往する際、持参したといわれる御神体が祀ってありました。神殿は嘉永3(1850)年に、拝殿は明治12(1879)年に、梅ヶ島新田の稲荷神社に移築されました。幕末日影沢金堀衆が新田に移り、無住の地となったためです。
庚申塔は元禄5(1692)年に造立されました。江戸時代前期の舟型々式で、庚申講結衆の、名主秋山氏以下5名の銘が見られ、庚申石仏一尊と書かれた両側に「願わくは此功徳を以て普く一切に及ぼし、我等衆生と皆共に仏道を成ぜん」と、法華経化城諭品の一節が刻されています。道教信仰に仏教的信仰が加わった見本のような庚申塔として民俗学的にも評価される。庚申塔造立は、金堀衆の延命と招福にあったが、村の講中の人々が徹夜で酒食をとるので、村民の連帯につながった。現在でも梅ヶ島新田では、庚申講が行われています。
(看板資料より)


住居跡
上の八幡神社跡と庚申塔の周辺には写真のような石垣がたくさん残されていました。看板の説明によると住居跡とのことでしたが、黒川金山にもこういったところはありました。黒川金山よりこちらの方が石垣の規模も大きく遺構としてはきれに残されているように見えました。


長盛鋪跡

長盛鋪跡(ちょうせいしきあと)
貞享元(1684)年駿府町人28名が時の代官近山六左衛門を通じ、江戸勘定奉行の許可を得て日影沢金山の開発を企図しました。呉服町三丁目難波屋仁兵衛を筆頭に本通り敦賀屋、桑名屋等で、その後桑名屋は後々まで日影沢金山の開発に尽くしました。修訂駿河国新風土記には、
「往古より黄金の多く出したる坑は梅ヶ島日蔭沢なる長盛鋪と云る鋪大なる坑にて桑名屋六郎兵衛が堀し所なりといふ、長盛鋪の大天井とて金体のありし所は方二間余りの坑、今に存す」と書かれてあります。
長盛鋪(鋪とは坑道のこと、間歩ともいいます)全長370間(約666メートル)に及び坑内には鍾乳石化した所があり、昭和初期まで入坑できました。
金含有量1トン当り5kgという金鉱石が産出され、良質のため「江戸幕府細工所御用」となりました。
(看板資料より)

地元の人の話では台風の影響でかなり崩れてしまっていたとのことでしたが確かにパンフレットの写真の様子とは少し違って木で支えてありました。


山神様

この祠に祀られているのは、日影沢金山の山神様で、坑内作業員の安全と金がたくさん出るようにと、村の守り神として奉納されたもので祭神は大山祇命である。この山神様には「元禄6蔵(1693)2月吉日羽州福嶋郡大笹生村施主安田八右衛門」と刻まれている。安田八右衛門は流浪の金堀師で、長盛鋪の上位に八右衛門造りと称される小地名があるが、八右衛門が開拓したと思われる。
「日に一両の手間が三年続き、日に一分の手間が十年続いた」と伝承されているが、三年間の御荷分稼行、十年間は最初の村請稼行の頃と推定すれば、貞享・元禄の活況時に、多数の山師金堀師が入村したのは間違いない。安田八右衛門もその一人であったと思われる。大笹生村は現在福島市の北方にあり、附近には幕府主要鉱山として稼行された半田鉱山があった。
(看板資料より)

坑道を過ぎて少し行ったところで道が2つに分かれていました。左側が本道ですが、右側の道を登ると上に山神様が祀られていました。ここも少し登りますが是非行ってみてください。


日影沢金山 金堀衆の墓地
「塔頭の尾根」と称されるこの地に散在する墓地群は、黄金という地宝を地上に出すために、情魂を傾けて掘り続けた、日影沢金山金堀衆とその家族の墓である。
苔むし雑草に蔽れた墓は、寛文(1661-73)以降のものが大部分で、あまり大きなのはない。このことはプロの石工がいる甲州で、墓碑銘を刻して貰い、峠を越えて持って来たためと思われる。
金堀りは、劣悪な労働条件のため短命といわれ、佐渡では25歳になると、還暦の祝いをしたという。
三十路にて生命たふるといわれたる金堀り達の苔むせし墓
(看板資料より)

今回一番驚いたのがこの金堀衆の墓地でした。こんなものが残っていた金山跡は初めてでしたし、金堀衆のことを考えさせられるいい機会となりました。予想以上にたくさんの墓があり、墓石にはちゃんと読み取ることができる字で年号などが刻み込まれていました。後世に残していきたいものです。


奉行屋敷跡

慶長年間(1596-1615)黄金の産出多く、日影沢金山の産出金をもって駿府の金座で慶長小判が鋳造されました。金座の長官後藤庄三郎光次が墨書し、金品位を保証したので、「駿河墨書小判」といわれています。
当時梅ヶ島村は天領(幕府直轄地)で、駿府町奉行井出志摩守正次の支配下にありました。その頃此処に金山奉行屋敷や、鏈御蔵と呼ばれた金鉱石の貯蔵所が建てられました。
その後、貞享3(1686)年遠州中泉代官近山六左衛門支配のとき、代官の自費で再建されました。奉行屋敷には代官の手代が常勤し、梅ヶ島村の行政指導や金山の監督をしていました。
(看板資料より)

尾根をどんどん下っていくといつのまにか河原に出てしまいました。そして河原の対岸には私の車が見えました。ちょうど日影沢親水園のところに出てきていたのです。対岸にはどうやって行けるのか?と悩みましたが、水は流れておらず、そのまま土手の階段状の岩を登りもとの駐車場に戻ってくることができました。

 

 
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