今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として関口刑部親長に持舟城を守らせていた。
この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年3月結婚、この政略結婚が後年の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知るよしもなかった。
永禄3年5月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。
川中島合戦で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄11年12月駿河に進攻して持舟城を攻略。城主一宮出羽守は兵と共に討死し、城は武田勢水軍の支配化に入った。
三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正7年9月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなき鬱憤の吐け場となり、激闘壮絶を極め、武田方の武将向井伊賀守正重・甥の兵庫・叔父伊兵政綱・長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。
後日、家康は非を悔い、向井・叔父・甥を興津清見寺に葬り、今も古色蒼然とした墓塔が同寺にあります。
天正8年2月再び武田氏の領有となり、朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正10年2月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州・駿河の各城を抜き持舟城に迫るや、朝比奈駿河守は戦わずして城を明け渡し退却、あっけない幕切れとなった。
家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終った。
向井正重の次男、正綱はたまたま城外に在って生き残り、本田作エ門の手の者となり、徳川家に仕えて船主頭となり、その4代目の子孫、正興が長崎奉行勤番の折、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置されました。
向井家は以降代々重臣として繁栄し、その後裔は東京都新宿区に現住しておられます。
(大雲寺資料より) |