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静岡県静岡市

持舟城

2014年12月28日

持舟城は、昔から村民たちに「城山さん」と呼ばれています。今でも「用宗城山町」の町名に使われ、昭和59(1984)年に開校した「静岡市立城山中学校」の校名はこの「城山さん」から命名されました。
持舟城築城年代は不明ですが、戦国時代の今川氏時代にはすでに築かれていたと考えられます。江戸時代の古絵図によるとこの地は、駿河湾に面して東・北に深く入江が形づくられた天然の良港でした。現在の静岡市駿河区用宗の地名は湊(港)を意味する「持舟」が転化したものとも言われ、今も昔も漁業と深い関係を持っていました。今川氏はここを水軍の拠点とすると共に西方、日本坂から駿府に進入する敵対勢力を防ぐ城砦としても利用しました。
城跡は、この頂上広場(高さ76m)が本丸(本曲輪)、南西側のくぼ地に大堀切、井戸跡(曲輪)があり、その南側に二の丸(二の曲輪)本丸の北側には腰曲輪がありました。北側の城の下は沼地と深田が広がっていました。南側は海に近く、船溜りと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていました。永い年月を経た今も、遺構はそのままの形で残っています。
築城から廃城までの間に、今川・武田・徳川氏によって三度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死する記録が残ることは静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値が如何に高かったかを物語っています。今川氏の城主「一宮出羽守随波斎」は麓の青木の森に、武田氏の城主「向井伊賀守正重」は興津清見寺に手厚く祀られています。
最後の城主、武田氏の「朝比奈駿河守」は徳川軍に城を明け渡し、多くの将兵は城下に落ちのびて生涯を全うしました。やがて持舟城は徳川氏のもとで廃城になりました。
後に向井氏の子孫が城跡に観音像を建てて「正重」の霊を祀っています。観音像は阿耨観音(マリア観音)と呼ばれ、今は用宗駅北の大雲寺に安置されています。
村民たちは7年に1度御開帳を催し、その後「城山烈士供養塔」を城下に建立して、将兵の慰霊と現世の平和を祈っています。
(看板資料より)


本丸

今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として関口刑部親長に持舟城を守らせていた。
この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年3月結婚、この政略結婚が後年の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知るよしもなかった。
永禄3年5月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。
川中島合戦で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄11年12月駿河に進攻して持舟城を攻略。城主一宮出羽守は兵と共に討死し、城は武田勢水軍の支配化に入った。
三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正7年9月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなき鬱憤の吐け場となり、激闘壮絶を極め、武田方の武将向井伊賀守正重・甥の兵庫・叔父伊兵政綱・長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。
後日、家康は非を悔い、向井・叔父・甥を興津清見寺に葬り、今も古色蒼然とした墓塔が同寺にあります。
天正8年2月再び武田氏の領有となり、朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正10年2月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州・駿河の各城を抜き持舟城に迫るや、朝比奈駿河守は戦わずして城を明け渡し退却、あっけない幕切れとなった。
家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終った。
向井正重の次男、正綱はたまたま城外に在って生き残り、本田作エ門の手の者となり、徳川家に仕えて船主頭となり、その4代目の子孫、正興が長崎奉行勤番の折、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置されました。
向井家は以降代々重臣として繁栄し、その後裔は東京都新宿区に現住しておられます。
(大雲寺資料より)


大堀切

以前来た時、本丸には建物があって鬱蒼としていましたが、既にその建物はなくなっていて公園のようにきれいに整備されていました。本丸の奥に進むと大きな空掘があって更にその先には二の丸がありました。


本丸からの景色

本丸からは上の写真のように静岡市内を見渡すことができました。右遠方の台地は日本平です。真下には新幹線が走っていて轟音が鳴り響いていました。

 



2004年05月01日

麓から農道が整備されているが一般車輛は進入できません。しかし私はそんなことも知らずに上まで行ってしまいました。どうもすいません。ちょうど城の入口のところにいた地元の方のお話では持舟城は武田軍の馬の城だったとの伝説があるそうです。
城の麓には馬を埋めたところがあってそこから馬の骨が出土したとのこと。そこには草木がまったく生えなかったそうです。


持舟城からの景色

昔は麓のJR用宗駅のところまで海だったそうです。

 

 
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