←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県静岡市

薩埵峠

2014年12月07日

薩埵山合戦場
古来ここでは二度の大合戦があった。まず観応2(1351)年室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退した。二度目は永禄11(1568)年から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので、今川氏真が清見寺に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年12月に三度侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。



2004年05月01日

薩埵山合戦場
古来ここでは二度の大合戦があった。まず観応2(1351)年室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退した。二度目は永禄11(1568)年から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので、今川氏真が清見寺に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年12月に三度侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。

下道
通称親知らず子知らずの道で海岸の波打ち際を道路として利用していた。安政元(1854)年の地震で海岸が隆起しそれ以降再び道路として利用されるようになった。
中道
慶長6(1601)年家康伝馬制度を設ける。慶長9(1604)年53次宿駅制度を設ける。承応3(1654)年峠道を開く。慶長年間から明暦年間まで主として利用されていた。
上道
参勤交代で諸大名も通った道である。明暦元(1655)年9月江戸幕府は朝鮮使節の一行を迎えるにあたり開いた道で幕末まで利用されていた。
脇道
通称じぞうみちといい、上古から通行に利用されている。
(看板資料より)

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→