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長野県伊那市

高遠城

2017年04月23日

 



2007年04月29日

新城(盛信)神社・藤原神社

4月29日に桂泉院および高遠城址公園内の藤原神社で行われた慰霊祭および例大祭に参加させていただきました。当日は朝9時に桂泉院に集合することになっていましたが7時半ころには到着してしまったので建福寺に寄りました。9時から桂泉院にある仁科五郎盛信公位牌堂にて仁科五郎盛信公426回忌が仏式にて行われ、その後場所を高遠城内にある藤原神社に移して引き続き例大祭が行われるとのことでした。まだ桂泉院も見るところがあるためもう一度戻ってくる必要もあり、最初は歩いて行こうかと思いましたが役場の方が言うには遠いので車で行ったほうが良いとのことで車で高遠城の勘助曲輪の駐車場に向かいました。高遠城址公園の桜は既にほとんどが散ってしまっていましたが大勢の観光客で賑わっていました。通常は城内に入るのに入場料500円がかかりますが、我々はそのまま入城を許されました。勘助曲輪の方から上がって行き、内堀に沿って北側にまわりこんで桜雲橋を渡って本丸に入りました。藤原神社はちょうど勘助曲輪の上あたりに位置する神社で桜雲橋を渡ってそのまままっすぐ南に行ったところにあります。既に役場の方が準備作業をしており忙しそうでした。関係者のうち数名は神社の建物の中に入ってそれ以外の人たちはその前に敷かれた青いマットのようなところに座りました。私は座るのがつらいのでそのまま立たせてもらいました。

仁科五郎盛信公例大祭

神官が祭礼を行いましたが、さきほど桂泉院で行われたときの木魚のリズムとは違って軽快に太鼓をたたき始めました。その後建物の中にいた方々が一人ずつ拝礼を行いました。関係する人の拝礼の時には外で座っている関係者の方々が一緒に手をたたいていました。仁科盛信公の直系の子孫にあたられる方が神社に奉納したことに対して感謝状を受け挨拶をされておりました。


高遠閣

藤原神社での例大祭が終了し、その後は高遠閣で保科正之生誕396年に関する祭礼が行われるとのことで高遠閣に向かいました。途中で赤飯とお酒のセットを頂きました。高遠閣の中に入ってから仁科盛信公の直系の子孫にあたられる方から声をかけていただき、更に高遠町総合支所長の方も紹介していただきました。なんと事前に私のホームページを見ていただいていたとのことで感激いたしました。

講演会「名君保科正之公と武士道の精神」

そして10:45から行われた「名君保科正之公と武士道の精神」という講演会に参加しました。12時すぎまで行われましたが広い部屋にほぼ満席状態でたくさんの方が聞きに来ていました。高遠では保科正之公を主人公とした大河ドラマ実現に向けてがんばっているようでした。署名活動などもされているようでしたがもっと若い人にも聞きに来てもらいたいですね。
講演会が終わってから再び桂泉院に戻ろうとしたのですが、観光客で賑わっていて道路が混雑していたのでそのまま歩いて桂泉院に向かいました。

 



2006年12月30日

大手門跡

大手門は城の表門であるが、現在はことごとく改造され、原形は分からなくなっている。旧道は左側の畑のあたりで、登りつめたところに冠木門があり、その中に桝形があった。右側の古い石垣は桝形の一角と思われるが、その他の石垣はみな改造されている。
枡形の奥には、間口5間、奥行き2間の2階建櫓門があり、そこを入ると右側に番所があって、常に警備の役人が出入を監視していた。
(看板資料より)


元高遠城楼門

この門は高遠高校がこの地にあったときに正門として使用されていた。明治4年廃藩のとき、高遠城内の建築物は、すべて取り壊しを命ぜられた。当時、城内には追手、二の丸、本丸、搦手の4つの楼門(間口5〜6間、奥行2間の二層門)があったが、競売されて民家の門として移築された。この門は、そのうちの一つで追手門といわれているが形も大きさも縮小されている。昭和29年、高遠高校の門として伊那市の持主より寄贈され、進徳精神のシンボルとされた。
(看板資料より)


高遠閣

高遠閣は昭和8年当時、高遠城址公園内に会館を建て、町民の集会や観光客の便に供することが町の発展のため有意義ではないかという愛町の思いから、東京高遠会の有志の発案により、日本画家池上秀畝氏、出版業矢島一三氏、鉱山業廣瀬省三郎氏、弁護士小松傳一郎氏の4名の寄附により、当時の町長廣瀬常雄氏の協力のもと棟梁竹内三郎氏を中心に建築が進められ、昭和11年12月6日に完成しました。
この建物は間口14間、奥行9間、峯高10間、木造総2階建、入母屋造、鉄板葺(建築当時はこけら葺)の大規模建物で、大正・昭和初期の稀有の建物として昭和14年8月21日に国の登録有形文化財として登録され、長野県天然記念物桜樹林の中に高くそびえる赤い屋根の偉容は、遠方からも眺められ史跡高遠城跡(昭和48年5月26日国指定)のシンボルとなっています。
平成15・16年の2ヵ年に渡り施設の保存及び有効活用を図るため、構造補強、バリアフリー等の工事を行い、平成16年10月11日に完成しました。
地域住民の各種活動の場として、史跡高遠城跡を訪れる観光客の皆さんの休憩所等として利用されています。
(看板資料より)


二の丸跡

本丸の北から東にめぐっている郭で倉庫、役所、馬屋、馬見所などがあった所。また広場もあって出征の時や行列をつくる時などはここに集合し隊伍を整えて出発した。高遠閣の裏手から東側堀端には土手が残っていて当時の状態をうかがうことができる。
(看板資料より)


問屋門と桜雲橋

幕政時代に主な街道には宿駅を定め、問屋と称する人馬伝送宿泊を始め公通上の駅務をとる役人をおいた。この門は高遠本町にあった問屋門であったが、昭和23年にここに移したのである。門前の橋下に本丸側の石垣や門を入った左側の石積や土手は大体往時の形を存している。
(看板資料より)


高遠公園碑

この碑は、高遠城の沿革を記したものである。
天文16年(1547)武田信玄によって築かれたこの城は、難攻不落の城として武田氏進攻の拠点となっていたが、信玄の五男仁科五郎盛信が城主のとき織田の大軍に囲まれ、盛信は城内で壮烈な戦死を遂げた。碑文はこの若い武将の意気を讃えている。
その後、城主は保科氏、鳥居氏、内藤氏と明治維新まで続いたが、廃藩後公園として保存することになった経過が記されている。
明治14年に建てられ、現在の史説と多少異なった記述もあるが、高遠城址に残る貴重な碑である。
(看板史料より)


新城(盛信)神社・藤原神社

新城(盛信)神社・藤原神社の由来
文政11(1828)年、城主内藤頼寧は、天正10(1582)年当城において織田の大軍を引き受け壮烈な最期を遂げた武田信玄の五男である仁科五郎盛信の霊を城内に祀り「新城神」と称し崇拝してきた。
これより先、城内には内藤頼以公が藤原氏の先祖大織冠藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったので、廃藩後の明治12(1879)年この神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。なお、宝物として内藤家寄進の甲冑その他の文化財があるが、これらは高遠町郷土館に保管されている。
(看板資料より)


太鼓櫓

幕政時代、城内搦手門内にあった太鼓は毎日偶数時にこれを鳴らして藩士の出退や城下町民に時を報じその便益を計っていた。廃藩の際、城の建物が撤去された時、一時城南白山に楼櫓を建造してこれに移したが、明治8年再びこの地に戻し現在の鼓楼は明治45年に建築されたものである。この年、大太鼓も張り替え、現在高遠閣の2階にあるのがそれである。
(看板資料より)


高遠城は天文16(1547)年武田信玄が山本勘助、秋山信友の名将に命じて築かせた城で所堅固なる三重式の城郭である。天正10年城主仁科盛信が五万三千の織田軍に攻められ、三千の城兵でよくこれを守り壮烈なる戦死を遂げたのはこの本丸である。その後、保科、鳥居と城主が替り、元禄4年から明治4年まで180年間内藤氏三万三千石の居城である。
(看板資料より)

本丸と二の丸の間の堀

古戦場跡(高遠城の戦い)
天正10(1582)年2月、織田信長は信玄なきあとの武田氏を一挙に亡ぼすために、伊那口からは長男信忠の率いる五万の兵を送り込んだ。この大軍に恐れをなした伊那谷の城主は、城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
26才の青年城主仁科五郎盛信(信玄の五男)は降伏を勧める僧の耳を切り落して追い返して三千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。要塞堅固を以って響いた城であり、城主盛信以下将兵の決死の奮戦も、17倍の兵力の前にはいかんともなし難く、三千の兵はことごとく討死した。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけたと古書は伝えている。
武田勝頼は諏訪上原城から新府城に退き天目山で自害し、高遠城の戦いは武田氏滅亡の最後のはなばなしい、そして悲しい戦いの場となった。
(看板資料より)


南郭からの中央アルプス

南郭
本丸の南をめぐる二の丸が堀で区切られ一郭をなしていた処で建物はなかった。明治30年招魂碑を建てるため池を削り広め本丸と木橋で連絡した後、堀を横切り土を埋めて今の道を造った。
(看板資料より)


白兎橋

文政の頃、高遠町の酒造業広瀬次郎左衛門という人があった。その号を白兎と称し、和歌、狂歌などが得意であった。文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押し寄せた百姓に与え、大事に至らずにすんだ。その他多町に通ずる弁財天橋を自費で修理するなど公共のために盡力した。その孫省三郎は私有地だった旧高遠城の法憧院郭を買上げそれを公園として寄附した。その時この橋を造り、祖父の徘号にちなみ「白兎橋」と名づけられたものである。
(看板資料より)


法幢院郭の外側の堀

ここに法幢院というお寺があったが、よそへ移して移築したから法憧院郭と呼んだ。天正10年の戦いには滝川一益がこの方面から攻め込んだ。郭につづいて東方に幅6メートル、長さ170メートルの馬場があった。
(看板資料より)


高遠城は元暦元(1184)年に笠原平吾頼直の創成で、その後天文年中に武田晴信の所有となり山本勘助が城郭の規矩を改め、西方に一郭を増し、これを後に勘助曲輪と称した。
天文16(1547)年2月22日に馬場民部景正、秋山伯耆守春近が武田信玄の命によって伊那郡に乱入して城郭3つを陥落させた。10月には晴信は大軍を率いて高遠に向かい、城を囲んで落城させた。その時から秋山伯耆守が信州先方侍の50騎を預かって守った。永禄5(1562)年からは武田勝頼が信玄の旧臣8人を添えられて高遠城に移ってきた。この時に馬場美濃守信房に命じて改築させた。後に山本勘助が一郭を添えて勘助郭と称した。元亀2(1571)年4月からは武田信虎の三男の逍遥軒信連が城代となった。天正9(1581)年春からは仁科五郎盛信が城主となった。
(長野県の武田信玄伝説より)

二の丸北側の堀

今まで桜が咲く時期にしか来たことがなかったため、史跡として高遠城を見学するのは初めてとなります。桜の時期は身動きできないほどの人出で賑わいますが、今回は私の他には犬の散歩をしていた老人を見かけただけでした。
この時期は城の西側から車で登っていくことができますが、坂を登りきる手前のところに大手門跡がありました。ここから郭を登っていったところが三の丸です。広くて大きな敷地ですが桜の時期には多くの出店で賑わうところです。そこから道路を挟んだ向かいのところが無料駐車場になっていたのでここに車を止めました。この無料駐車場が勘助郭になります。
勘助郭に車を止めて旧藩校である進徳館の前を歩いて北口から高遠城に入りました。桜の時期には入場料が徴収されますがこの日は誰もいなくて無料で入ることができました。北口から入ったところが二の丸になります。二の丸には高遠城のシンボルである高遠閣をはじめ、天下第一の桜碑などがあり広い郭となっています。また二の丸の東方には大きな空掘りが残っていて堀の下に行ってみると高遠閣を下から見上げることができます。
二の丸から桜雲橋を経て問屋門をくぐると本丸になります。二の丸と本丸を分けている堀も規模が大きなもので橋の上から堀を見ることもできますし、堀の下に降りていくこともできます。本丸には高遠公園の碑や新城神社・藤原神社、太鼓櫓などがあります。この日訪れたのは既にお昼近くでしたが仁科五郎盛信を祀っている新城神社にあった水溜りはまだ固く凍っていました。また太鼓櫓にも登ってみましたがここからは本丸を一望することができます。
本丸から南郭に出て、更に白兎橋を渡って法憧院郭に出ましたが、ここから見える中央アルプスの景色は絶景ですね。
また白兎橋の下にある堀はかなり険しくそのまま県道まで続いていました。
法憧院郭から先ほどの二の丸と本丸の間にある堀に下りて再び北口の方まで歩きました。桜雲橋の下を通ってそのまま勘助郭まで降りてしまい、本丸の下を通って西口から笹郭を経て、南郭から法憧院郭に出ました。法憧院郭から信州高遠美術館の方にまわってみると法憧院郭の北側の大きな堀がありました。渡辺近太夫照が滝川一益の軍勢と死闘を繰り広げたところですね。
南口から再び高遠城に入り、二の丸の東側の大きな堀を歩いて北口の方まで行ってみました。

 



2005年04月17日

前日の夜に出発して、中央道原P.Aで車中泊し、杖突峠を越えて高遠に向いました。高遠の街中には午前7時前には到着しましたが既に街中は大渋滞となっていました。以前の駐車場には案内されず、高遠城址の前を通過させられてそのまましばらく誘導され、かなり遠い所にある無料駐車場に車を止めました。そこから往復200円の立派なシャトルバスで高遠城南口の方まで乗せてきてもらいました。上の写真は南口に向う階段を登っていくところから撮影したものです。桜の開花状況は、まさに本日満開でちょうどいい時期でした。天気も良好、風もなく、今までで一番いいタイミングで桜を見ることができました。お昼前には高遠を出発して帰途につきましたが裏道である杖突峠方面に向ったにもかかわらず、高遠へ向う車が延々と続いていました。

桜雲橋

町立歴史博物館で「高遠城の戦い」という薄い冊子を購入しました。ここには高遠城の戦いの詳細が書かれていました。考えてみると、高遠城には何度も来ているのですが、いつも桜を見に来てばかりで、堀や郭などの遺構をしっかりと見たことがないことにやっと気がつきました。次回は桜の季節でないときに来てみたいと思います。

 



2002年04月13日

問屋門

インターネットで調べて見頃の時期にあわせて来たかったのですが、週末では既に見頃の時期を過ぎてしまっており、写真のようにかなり散ってしまっている状態でした。しかし下の写真のように、散った桜の花が堀の池一面に浮かんでいる様子もまたいい感じでした。


元高遠城楼門(縮小)



2000年04月22日

桜雲橋と問屋門

1週間前の下見(2000年04月15日)の時にはほとんど開花していなかった桜も、今回はやや見頃の時期を過ぎてしまっており、地元の人の話では麓の駐車場付近がちょうど見頃であるとのことでした。しかし高遠城内は写真の通りまだまだ咲いていました。

本丸

 



2000年4月15日

長野県高遠町の高遠城址の桜開花の様子を見に下見に行ったが、まだほとんど咲いていなかったため急遽「史跡探索」に変更した。帰路山梨県塩山の恵林寺に立ち寄った。

現地での説明によると、高遠城は山本勘助と秋山信友により築城されたらしいがこれは怪しい。その後、信玄の四男である諏訪勝頼、信玄の弟である信廉、信玄の五男である仁科盛信が城主になるが盛信が城主のとき、織田軍が武田の領内に侵攻する。ほとんどの城では抵抗することなく降伏したが、この高遠城だけは織田の大軍に対して徹底抗戦し落城した。
その後は、内藤氏が高遠藩主として明治維新を迎える。高遠藩の江戸屋敷が新宿にあったことから、「内藤新宿」というらしい。江戸屋敷は今の新宿御苑である。高遠町と新宿区は友好都市になっている。

朝8時に高遠城址公園に到着。
天下第一の桜碑


荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑

荻原井泉水(おぎわら せいせんすい:明治17年〜昭和51年)
大正・昭和期の俳人。本名は藤吉。東京に生まれ東京大学言語学科を卒業。河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)の門に入り、1911年俳誌「層雲」を創刊し、新傾向の俳句を主張した。従来の俳句の定型を打破し、リズムと内的生命を重視した。のち季題無用論を唱えて碧梧桐と対立した。「井泉水句集」のほか俳論集、随筆集および芭蕉・一茶に関する研究がある。
(むさし書房:人名辞典より)


本丸跡。まだ桜は咲いていない。


太鼓櫓

本丸の北側にある新城神社、藤原神社


中村不折銅像

中村不折寿像
わが国洋画界の泰斗であり、書道の権威者である中村不折は慶応2年(1866)高遠に生まれた。生来学問が好きで、常に書を手離すことがなく、また絵画に親しんだ。
16歳のとき小学校教員となったが、画道で身を立てようと上京し、南画、油絵を習った。その後フランスに留学し、人体画を描くようになり帰朝第一作が「建国剏業」の大作で、不折の名はこれから急に高くなった。
油絵という西洋画風を用いつつも、その題材を東洋の古典から選び、数々の秀作を残している。また、六朝前の書道を学び、不折流として一派を開き、邸内に「書道博物館」を建て、日本、中国の書道に関する貴重な資料を残した。
昭和18年に78歳で没したが、この胸像は、不折の功績をたたえ門人の手で建てられたものである。
〜看板資料より〜


高遠公園の碑


二の丸から桜雲橋と問屋門

 

広瀬奇壁、河東碧梧桐の歌碑

河東碧梧桐(かわひがし へきごどう:明治6年〜昭和12年)
大正・昭和前期の俳人。本名秉五郎(へいごろう)。愛媛県松山の生まれ。正岡子規の門に入り、俳句革新の仕事に従った。新しい材料を用いて俳句の定型17字や季題などを無視して、表現にも新傾向を求めた。高浜虚子の主情的な句風に対し感覚的・写実的な句風をもっていたが、虚子のホトトギス派に圧せられて振るわなかった。著書に「碧梧桐句集」、「春夏秋冬」、紀行随筆「三千里」、「続三千里」がある。
(むさし書房:人名辞典より)

南口ゲートを出たところの桜だけ、ちょっと咲いてました。

絵島囲み屋敷

桜アイスを掲げる私


桂泉院
五郎山(仁科五郎盛信祠)
四郎山(小山田備中祠)
三郎山(渡辺金太夫祠)
二郎(諏訪はな祠)
一郎山(諸士の墓祠)
建福寺
春日城
殿島城
妙善寺

 

 
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