竜勝寺には竜勝寺殿の墓があるとのことで今回寄ってみました。結論からいうと竜勝寺殿の墓をはじめとして位牌など彼女に関するものは何もなく、竜勝寺殿とは縁もゆかりもなさそうでした。
ところで竜勝寺殿という人は武田勝頼の最初の正室で、法名が「竜勝寺殿花鍔春楽大禅定尼」というところからこう呼ばれているようです。織田信長の養女で永禄8(1565)年11月に武田勝頼のもとへ嫁いで来ました。
以前、美濃国苗木城に行ったときに「苗木遠山資料館」で見せてもらった資料によると次のようなことが書かれています。
岩村城主遠山景友の次子である遠山左近佐直廉が苗木城を築いたといわれており、この遠山直廉に織田信長の妹が輿入れして娘が生まれ、その後の信長が引き取って養女として育てたとのこと。遠山直廉の幼名は勘太郎というので苗木勘太郎と称していたと考えられるとのことです。また別の説としては岩村城の支城である飯羽間城主の子の遠山右衛門佐友勝が苗木城主となって「遠山勘太郎」と称して織田信長の妹を娶ったとする説もあるとのことでした。
どちらにせよ織田信長は妹の子を幼いときから引き取って自分の娘のように育てたのでした。
そしてその娘が織田信長の娘として武田勝頼のもとに嫁いできたのです。
婚姻から2年目の永禄10(1567)年11月に嫡子信勝が誕生しますが、夫人である遠山氏はこの時の難産のため死去したとされています。また元亀2(1571)年に死去したという説もあるとのことですがこれは側室であるという説もあるようです。
そして問題の墓の所在についてなのですが、高遠勝間村の竜勝寺にあるといわれていると書かれた本がいくつかあるのです。
しかし今回竜勝寺を訪れてこのお話をしてみたところ、同じように遠山夫人の墓や位牌を訪ねてくる人が何人かいましたが、そういうものはないとのことでした。丁寧に本堂の裏に安置されているいくつかの位牌を見せてもらいましたが確かに竜勝寺殿に関するものは見当たりませんでした。 |