五郎山(仁科五郎盛信祠) |
2017年06月11日 |
天正10(1582)年、織田信忠は大軍を率いて武田氏討伐の兵を進めた。武田信玄の五男仁科五郎盛信は、兄勝頼の命により、高遠城主となってこれを迎え撃った。戦いは3月2日早朝より数時間に及び熾烈を極めたが、遂に落城し、盛信は壮烈な死を遂げた。
仁科五郎盛信は、武田信玄の五男で勝頼の弟にあたり、母は油川夫人、同腹の妹に松姫、菊姫がいる。仁科氏の名跡を継いだために仁科と名乗ったが勝頼は天正9(1581)年盛信を高遠城に配置した。天正10(1582)年織田軍猛攻の前に次々崩れる武田勢のなかでただ一人踏みとどまって城を死守し壮絶な戦死をとげた。遺体は地元の農民によって葬られ、今もこの地に眠っている。 |
仁科五郎盛信公石像建立の由来 |
2006年12月30日 |
仁科五郎盛信祠
四郎山以下4つの祠を訪れるために五郎山に立ち寄りました。それぞれの祠は小さなものでした。あらためて最後に一番上にある仁科五郎盛信の祠を確認しましたが、石碑と仁科五郎盛信の石像の間にある小さな祠です。 |
仁科五郎盛信公石像
仁科五郎盛信公石像建立の由来
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2005年04月17日 |
高遠城に桜を見に来た帰路、五郎山から高遠城の桜を見るべく現地に向いました。五郎山への入口の道は今の時期はシャトルバスの路線になっていて一方通行になっていたのですが、警備員に事情を説明して進入させてもらいました。五郎山に登っていく道の途中にも桜の木があり、南アルプス仙丈ヶ岳と桜の写真を撮っている人たちがたくさん訪れていました。五郎山頂上からは高遠城の桜の様子がきれいに見えるに違いないという予想は見事にはずれ、ほんの少しだけしか見えませんでしたが、仁科五郎盛信の墓から高遠の街を眺めてしばし感慨に浸ったのでした。
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2004年03月13日 |
天正10(1582)年、織田信忠は大軍を率いて武田氏討伐の兵を進めた。武田信玄の五男仁科五郎盛信は、兄勝頼の命により、高遠城主となってこれを迎え撃った。戦いは3月2日早朝より数時間に及び熾烈を極めたが、遂に落城し、盛信は壮烈な死を遂げた。 |
仁科五郎盛信公
仁科五郎盛信は、武田信玄の五男で勝頼の弟にあたり、母は油川夫人、同腹の妹に松姫、菊姫がいる。仁科氏の名跡を継いだために仁科と名乗ったが勝頼は天正9(1581)年盛信を高遠城に配置した。天正10(1582)年織田軍猛攻の前に次々崩れる武田勢のなかでただ一人踏みとどまって城を死守し壮絶な戦死をとげた。遺体は地元の農民によって葬られ、今もこの地に眠っている。 |
五郎山から高遠城方面の景色
天正10(1582)年高遠城主仁科五郎盛信は、織田の大軍に攻められ、城内で壮烈な戦死を遂げた。盛信の遺体は勝間村の人々によって村に運ばれ、荼毘に付しこの地に葬られ五郎山と呼んでいる。ここから東の尾根伝いに、小山田備中、渡辺金太夫、諏訪はな、諸氏と4ヶ所に墓が築かれている。
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初めは車で登れるルートの反対側の方へ行ってしまいました。近所のおじさんに聞いたら下の写真のところから30〜40分で上まで行かれると聞き、登る覚悟をしたのですがその後、車でも登れるという情報を聞いてここから登ることはあっさりと断念しました。 |
天正10年3月高遠城主仁科五郎盛信(武田信玄の第5子)は三千の城兵と共に、城を囲んだ織田勢5万人の大軍と激戦を繰り返し、ついに全員壮烈な戦死をとげた。時に盛信26才であった。 |