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長野県伊那市

郎山(渡辺金太夫祠)

2017年06月11日

渡辺金太夫は名を照といった。遠州高天神城衆として徳川家康に属していたが、家康が天正2年武田氏との抗戦に敗れてから武田勝頼の麾下に加えられた。
元亀元(1570)年には姉川の合戦で、一番槍の功名を立て、信長から「天下第一の槍」と感状が与えられた。
天正10年織田信忠が高遠城を攻めた時には大身の槍を振り回して敵中に突入し散々に切り回し討ち死にした。その働きは敵方も称賛した。戦いが終わって遺骸は勝間住民により、五郎山に手厚く葬られた。
(看板資料より)

 



2006年12月30日

渡辺金太夫は名を照といった。遠州高天神城衆として徳川家康に属していたが、家康が天正2年武田氏との抗戦に敗れてから武田勝頼の麾下に加えられた。
元亀元(1570)年には姉川の合戦で、一番槍の功名を立て、信長から「天下第一の槍」と感状が与えられた。
天正10年織田信忠が高遠城を攻めた時には大身の槍を振り回して敵中に突入し散々に切り回し討ち死にした。その働きは敵方も称賛した。戦いが終わって遺骸は勝間住民により、五郎山に手厚く葬られた。
(看板資料より)


渡辺金太夫照はもともと徳川の家臣でした。姉川合戦で織田信長から日本一の槍との感状を賜るほどの武勇絶倫なる武将でした。信玄死去後、勝頼の代になって天正2(1574)年、武田勝頼が徳川方の高天神城を攻めた際に高天神城主小笠原長忠の家臣として武田軍と戦いましたが家康や信長からの援軍が来ずに高天神城は落城してしまいます。このとき渡辺金太夫照は武田方につくことになりました。
天正10年の高遠城での戦いの際には城主仁科五郎盛信のもとに高遠城に詰めていました。
武田勢劣勢の中、怖気づいて高遠城から逃れていく者も出る中、小山田備中は、以前敵方であった渡辺金太夫照を疑い、高遠城から立ち去るよう勧めましたが、「拙者は三河ものゆえ疑われるのはもっともですが、金太夫に於いては決して二心ありません」と忠誠を誓ったのでした。
盛信も渡辺金太夫の誠忠に感心して伝家の脇差を褒美に賜りました。
織田軍が迫る中、渡辺金太夫照は羽桐九郎治郎、今福民部などとともに高遠城南方の法堂院郭口に配されました。
天正10年3月2日、法堂院郭に攻め寄せたのは滝川一益の部隊でした。
渡辺金太夫は一丈三尺の大身の槍を振り回して滝川軍5千の真っ只中に駆け入って戦いましたが遂に力尽き戦死しました。
(高遠町立歴史博物館 高遠城の戦いを参考にさせていただきました)


五郎山(仁科五郎盛信祠)
四郎山(小山田備中祠)
二郎山(諏訪はな祠)
一郎山(諸士の墓祠)
高遠城
高天神城

 

 
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