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長野県伊那市

四郎山(小山田備中祠)

2017年06月11日

小山田昌辰は武田信玄の侍大将であった備中守の子で父と同じく備中守と呼ばれた。初め武田信玄に仕えたが、信玄没後は勝頼に仕えた。天正10年織田信忠が高遠城を攻めた時は高遠城の副将として仁科五郎盛信にそっていた。
城中にあって盛信を激励し、弟大学助と共に防戦につとめたが遂に壮烈な死をとげた。戦いが終わって織田軍が引き上げた後、勝間村の百姓たちが盛信らと共にこの山に葬った。
(看板資料より)

 



2006年12月30日

小山田昌辰は武田信玄の侍大将であった備中守の子で父と同じく備中守と呼ばれた。初め武田信玄に仕えたが、信玄没後は勝頼に仕えた。天正10年織田信忠が高遠城を攻めた時は高遠城の副将として仁科五郎盛信にそっていた。
城中にあって盛信を激励し、弟大学助と共に防戦につとめたが遂に壮烈な死をとげた。戦いが終わって織田軍が引き上げた後、勝間村の百姓たちが盛信らと共にこの山に葬った。
(看板資料より)


案内板には小山田昌辰とありますが、多分小山田昌行のことだと思います。小山田昌辰は小山田昌行の父です。また小山田という姓ですが郡内の小山田氏とは別系統の人です。そもそも小山田ではなく、上原昌辰でした。武田信玄は大井氏の内山城を攻略した後小山田備中守昌辰を内山城を任せ、その後の佐久攻略時に活躍しました。
その嫡子である小山田備中守昌行は長篠・設楽原合戦では松平伊忠を討ち取るなどの活躍をしています。
高遠城での織田信忠との戦いの際には、仁科五郎盛信の副将として二の丸にあって諸軍を指揮しました。


五郎山から坂道を下ってしばらく歩いて行くと祠と案内板を見つけることができます。案内板には四郎山と書かれていますが小高い山になっているわけではなく五郎山から続く峯の一角だと思います。五郎山には今まで何度か来たことがありますが是非道を下って、四郎山から一郎山まで訪れてください。
また上から下って行くと帰りは登っていかなければならないのですがそんなに距離は無いので大丈夫だと思います。また麓から登っていくこともできます。


五郎山(仁科五郎盛信祠)
三郎山(渡辺金太夫祠)
二郎(諏訪はな祠)
一郎山(諸士の墓祠)
高遠城
松平伊忠戦死之地

 

 
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