松平伊忠戦死之地 |
2014年08月15日 |
「松平伊忠戦死之地」の碑は、昭和50年5月に、「三州長篠合戦記」により、有海字作神の257号道路の傍に建立された。戦勝した連合軍の中で、城主級武将で戦死したのは松平伊忠ただ一人である。 この戦いで戦死した唯一の連合軍側の武将松平伊忠の参戦覚悟が「家忠日記増補」に記されている。「戦いに先立って、伊忠はわが子又八郎家忠を陣中に呼んでいう。この戦、力を尽くすが敵が上回れば自分の討死もある。その時は家康公に仕え家名を継いで忠義を尽くせ、と。その時"同行して父を助けてこそ"という家忠に、"父子共に死して家を断つは大不孝"と諭し、自分の家臣を何人か家忠につけ、親子は分かれた」
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2006年05月06日 |
有海から北に向っていくと道路沿いのすぐ左側に、「松平伊忠戦死之地」の看板があり左に入ってすぐのところに小さな石碑があります。 |
2003年10月12日 |
松平伊忠(当時39才)は、酒井忠次とともに鳶ヶ巣砦攻撃に参戦しました。敗走する武田軍を深追いしてしまい、小山田軍に包囲され討ち取られたとのことです。
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