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愛知県新城市

松平伊忠戦死之地

2014年08月15日

「松平伊忠戦死之地」の碑は、昭和50年5月に、「三州長篠合戦記」により、有海字作神の257号道路の傍に建立された。戦勝した連合軍の中で、城主級武将で戦死したのは松平伊忠ただ一人である。
家系を見ると、徳川家康の五代前親忠の弟忠景の二男忠定(深溝松平)の三代目が松平伊忠である。深溝松平はいつも最前線で戦い、父好景は善明堤で、伊忠は設楽原において、子の家忠は関ヶ原の前哨戦である伏見城でそれぞれ討死している。そのため、子孫はその功により、松平十五城主の内で二番目の出世石高となり、明治維新まで島原7万石の大名となった。
(設楽原戦場考より)

この戦いで戦死した唯一の連合軍側の武将松平伊忠の参戦覚悟が「家忠日記増補」に記されている。「戦いに先立って、伊忠はわが子又八郎家忠を陣中に呼んでいう。この戦、力を尽くすが敵が上回れば自分の討死もある。その時は家康公に仕え家名を継いで忠義を尽くせ、と。その時"同行して父を助けてこそ"という家忠に、"父子共に死して家を断つは大不孝"と諭し、自分の家臣を何人か家忠につけ、親子は分かれた」
砦急襲で勝利した伊忠は対岸の有海原に逃れた敵を追った。大海の入口あたりで前後に武田軍を受けた伊忠一行は残らず討死となった。
それから25年、父の年を越えた家忠は関ヶ原の緒戦となった「伏見城の戦い」で大阪方の西軍に囲まれて討死した。伊忠、家忠親子二代は、家康にとって最重要な二つの決戦の前哨戦でそれぞれ命を落とし、家康の天下取りを陰で支えた。
(戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦いより)

 



2006年05月06日

有海から北に向っていくと道路沿いのすぐ左側に、「松平伊忠戦死之地」の看板があり左に入ってすぐのところに小さな石碑があります。
長篠合戦のぼりまつり開催中だったので石碑の周りにはのぼりまつりの旗が立てられていました。



2003年10月12日

松平伊忠(当時39才)は、酒井忠次とともに鳶ヶ巣砦攻撃に参戦しました。敗走する武田軍を深追いしてしまい、小山田軍に包囲され討ち取られたとのことです。

 

 
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