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愛知県新城市

山本信供戦死之地

2014年08月15日

平成7年9月、新城市大海字下林の旧伊那街道右道端に、設楽原をまもる会による高さ130センチ、幅20センチの「山本信供戦死之地」の石標が建ち、この地の奥に高さ76センチ、幅20センチの「山本勘介信供奮戦玉砕の地」陰碑「13代山本勘介当主建之 新城市黒田住 昭和57年7月誌」(自称故人新城市黒田字稲荷13)の石標が立っている。この地で戦死した屍を、川路字寺ノ前(勝楽寺前)に移したと伝えられている。
信供は、勝頼から指示され竹広の山形高地に転戦したとある。味方の軍勢は総崩れとなり、信供は、本多・榊原ら名だたる徳川軍の追撃をかわしつつ大海あたりまで退いたが、ついに壮烈な戦死を遂げた。鎌子信治著『長篇長篠軍記』に「徳川の勇士渡辺半蔵守綱と一騎打ち、信供はこの首貴殿に進じ申さん。渡辺は信供の首級を携え素早く戦場を脱して、之を信長公の実検に供したる後、川路村の地内に埋め、戦後改めて埋葬した」とある。
(東三河の史跡めぐりより)



2012年05月04日

平成7年9月、新城市大海字下林の旧伊那街道右道端に、設楽原をまもる会による高さ130センチ、幅20センチの「山本信供戦死之地」の石標が建ち、この地の奥に高さ76センチ、幅20センチの「山本勘介信供奮戦玉砕の地」陰碑「13代山本勘介当主建之 新城市黒田住 昭和57年7月誌」(自称故人新城市黒田字稲荷13)の石標が立っている。この地で戦死した屍を、川路字寺ノ前(勝楽寺前)に移したと伝えられている。
信供は、勝頼から指示され竹広の山形高地に転戦したとある。味方の軍勢は総崩れとなり、信供は、本多・榊原ら名だたる徳川軍の追撃をかわしつつ大海あたりまで退いたが、ついに壮烈な戦死を遂げた。鎌子信治著『長篇長篠軍記』に「徳川の勇士渡辺半蔵守綱と一騎打ち、信供はこの首貴殿に進じ申さん。渡辺は信供の首級を携え素早く戦場を脱して、之を信長公の実検に供したる後、川路村の地内に埋め、戦後改めて埋葬した」とある。
(東三河の史跡めぐりより)

 
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