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長野県伊那市

建福寺

2007年04月29日

武田勝頼の母の墓

この日は、桂泉院にて行われる仁科五郎盛信公の慰霊祭に参加させていただくことになっていたので9時に高遠に来る必要がありました。前夜、諏訪湖SAで車中泊したので思ったより早く高遠に到着してしまいました。何もせずに車の中で待っていてももったいないので建福寺に行ってみることにしました。朝8時前でしたが本堂左側にある由衣姫の墓のところに行ってみました。お墓はもちろんそのままですが、看板は一新されてきれいなものに変わっていました。お墓のところからは中央アルプスがきれいに見えました。

建福寺からの中央アルプス

武田勝頼の母は諏訪頼重の娘で、実名が不祥のため諏訪御料人と呼ばれています。諏訪頼重は天文11(1542)年に武田信玄によって自害させられましたが、「尋常かくれなき美人」と言われた御料人は信玄に恋われ、父敵の側室となって諏訪氏再興を願いながら勝頼を産みます。しかし、その後病の身となり、勝頼の成長を待つことなくわずか25才ほどで短い生涯を終え、ここに葬られました。諏訪御料人は井上靖著「風林火山」では由布姫、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫と呼ばれています。
(看板資料より)

桂泉院での仁科五郎盛信の慰霊祭で地元の歴史に詳しい方からお話を聞く機会がありました。その人の話によれば建福寺にある諏訪御料人の墓は実は諏訪御料人の墓ではないのではないかとのことでした。確かに言われてみれば同じような墓石が3つ並んでいて、中央が保科正直、左側が保科正光、そして右側が諏訪御料人というもの少し違和感があります。

 



2006年12月30日

2007年のNHK大河ドラマはもちろん風林火山ですが、建福寺にはドラマの主要な人物である由衣姫の墓があるので直前の状態でどうなっているのか寄ってみることにしました。保科正直、正光の墓と共に並んでいる由衣姫の墓のところに行ってみると、以前来た時とまったく同じ様子でした。

 



2004年03月13日

安元2(1176)年、文覚上人が開創し、後の建長5(1253)年、大覚禅師によって再興されたが、天正年間武田勝頼が中興の開山とした。歴代高遠城主の信仰が厚く、武田、織田、保科氏から与えられた古文書を多く所蔵している。
保科氏の菩提寺であり、境内西側には武田勝頼の母、保科正直、正光の墓碑がある。当寺所蔵の狩野興以作の三幅対は、中に白衣観音、左右に龍虎を配した大作で国の重要文化財に指定されている。また境内にある石仏の多くは郷土の石工守屋貞治によって作られたもので優れた作品である。
(看板資料より)

湖衣姫は諏訪頼重の娘で、諏訪氏が武田信玄に滅ぼされた後信玄の側室となった。天文15(1546)年に後に武田家を継いだ勝頼を生んだが、勝頼10才の弘治元(1555)年11月6日上原城で亡くなった。年わずか24〜25才だったといわれている。勝頼16才で高遠城主となり、生母湖衣姫の遺骨を建福寺に移し供養したといわれている。法名を乾福寺殿梅岩妙香大禅尼という。
(看板資料より)


武田勝頼母の墓(右側)
乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼
これは武田勝頼の母の法名である。勝頼のは母諏訪頼重の女で武田信玄が諏訪氏を滅ぼしたとき14才で信玄の側室とされ甲府に移り19才で勝頼を生んだ。信玄は諏訪氏族懐柔の策として勝頼に諏訪氏の名跡を継がせ諏訪四郎勝頼と名乗らせ伊那郡の代官として高遠城に居住させた。
母の名は由布姫、湖衣姫、雪姫、諏訪御料人などといわれているがはっきりしたことはわからない。
墓所についても諸説があるが武田家の菩提寺である高野山成慶院の過去帳と当建福寺(慶長以前は乾福寺という)に安置されている位牌は時代も古く最も信頼のおける史料であると思われる。これらの史料から見て高遠城主となった勝頼は母と高遠に呼び孝養に努めていたがこの地で病没したのでその遺体を当寺に葬り法名も「乾福寺殿」とされたものと思われる。
(看板資料より)

保科正直の墓(中央)
建福寺殿天関透大居士
正直は下総多胡城主であったが慶長5年高遠城主となる。
(看板資料より)

保科正光の墓(左側)
大宝寺殿信厳道義大居士
正直の子。高遠城主。会津若松城主保科正之の養父。
(看板資料より)

 


建福寺には武田勝頼の母(新田次郎の小説では湖衣姫)の墓があり、今回寄ることにしました。高遠には何度も来ているのですが今までは桜の花を見るという目的のほうが大きく、史跡探索の方は怠っていたのです。勝頼の母の墓石にはかろうじて『弘治』という文字が掘ってあるのを確認することができました。20代半ばで息子勝頼を残して死んだ母は勝頼のことを心配していたと思います。

 

 
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