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長野県伊那市

桂泉院

2007年04月29日

仁科五郎盛信公位牌殿

仁科五郎盛信公の慰霊祭に参加させていただきました。実は掲示板で「仁科盛信の子孫殿」から4月29日に桂泉院および高遠城内の藤原神社にて慰霊祭および例大祭が行われるとの情報を教えてもらい、無理を言って参加させていただくことができたのです。前日に諏訪湖SAで車中泊をしていたので朝は楽でした。午前9時に桂泉院に行くことになっていましたが、7時半頃には高遠に到着してしまいました。少し時間があったので建福寺に寄ってから8時半前くらいに桂泉院に到着しました。

すでに位牌殿は慰霊祭の準備ができていました。近くに行ってみると扉が開かれていて中をのぞいてみると位牌がありました。中央に仁科五郎盛信公、向かって左側に渡辺金太夫照、右側には少し小さめの諸士の位牌、続いて小山田備中昌行の位牌がありました。正面には焼香台が置かれていました。了承を得てから位牌殿の中の様子の写真を撮影させてもらいました。当日は素晴らしい天気で山がきれいに見えました。私も高遠には何度も来ていますがこんなにいい天気はなかなかないと思います。このときちょうど詳しい方にお話を聞かせてもらうことができました。それによると、この位牌殿は400年祭のときに整備されたものとのことでした。また、織田軍が攻めてきて武田が滅亡した際には混乱の中、戒名や位牌なども用意できなかったとのことでした。その方はまるでご自身が400年前の高遠での合戦を見てきたかのようにお話していただきました。

境内には山本勘介桜や武田信虎公の墓への案内板もありましたが後でゆっくり見学させていただくことにしてまずは庫裏の中に案内していただきました。引き続き先ほどの方からいろいろなお話を聞かせていただきました。高遠饅頭が美味しかったです。
その後全員で先ほどの位牌殿の前に集まり、慰霊祭が始まりました。開式の言葉を聞いて実は初めてこの儀式が仁科五郎盛信公の426回忌であることが分かりました。桂泉院の住職がお経を読み、途中から順番に参加者により焼香が始まりました。僭越ながら私も最後に焼香させて頂きました。9時から始まった慰霊祭は20分弱で終わり、引き続き高遠城内の藤原神社にて行われる例大祭に向いました。
高遠城址公園内の藤原神社で例大祭が行われ、その後高遠閣で保科正之生誕396年記念行事に参加し、再び桂泉院に戻ってきました。高遠城から桂泉院まで少し距離があったのですが車は勘助曲輪に置いて来てしまい、しかも道路が渋滞していたので歩いて行くことにしました。重いカバンとカメラを持って行ったので疲れました。


桂泉院についてまずは水を飲みました。ここには高遠の三名水のひとつである桂水という美味しい水があるのです。のどが渇いていたのでとても美味しかったです。武田信虎公の墓は裏山にあるとのことで案内板に従って裏の方に行ってみました。今日はスーツと革靴の姿でしたがそのまま裏山を登りました。裏山といってもちょっと登る程度でした。武田信虎公の墓はすぐに分かるところにありました。

武田信虎公の墓

信虎公は天文10年嫡子信玄と家臣に追放され諸国を遍歴し永禄9年城主勝頼の時に高遠にくる。城主信綱の時、天正2(1574)年3月5日、81歳で高遠で歿す。霊牌を法幢院に納め、法幢院泰雲公康大居士と号す。遺骨は法幢院と甲斐の大泉寺に葬る。墓は桂泉院の裏山にある古い蘭塔である。
(看板資料より)

武田信虎公の墓の説明文に記載されている法幢院とはどこなのかと思いました。どこかで聞いたことがあると思ったのですが思い出せませんでした。しかし桂泉寺の住職に聞いてやっと思い出しました。もともと高遠城にあったもので現在はその跡地が法幢院郭となっています。高遠城でこの説明文を読んだときに法幢院がどこかに移転したのだということを知りましたがまさかそれが桂泉院だとは思いませんでした。要するに武田信虎公の墓はもともとは高遠城内のお寺にあったのですね。


内藤大和守修理昌月の墓

また、武田信虎公の墓の横に石碑があって、そこには内藤大和守修理昌月之墓もあると書かれていました。内藤昌月の墓がどれなのか分からなかったので桂泉院に行って住職に聞いてみました。すると内藤昌月のお墓は歴代住職の墓が立ち並んでいるがその一番右側にあるとのことでした。更に資料(龍澤山桂泉院縁起書)を頂くことができました。それによると、槍弾正で有名な保科正俊の嫡男保科正直の弟は内藤昌豊の養子となり内藤家の嫡男内藤昌月となったとのこと。本能寺の変で織田信長が死んだ後、保科正直は実弟である上州箕輪城主内藤大和守昌月の助力を得て高遠城にいた下條頼氏を追い、高遠城を奪還したとのことでした。そういう縁もありここに内藤昌月の墓があるのかもしれません。
内藤昌月の墓と仲良く並んでいたのが開山荊室廣琳大和尚の墓で、内藤昌月の弟であるとのことでした。もともと上州松井田の大泉山補陀寺12世であったが保科正直が高遠城を奪還した頃に法幢院に住したとのことです。要するに保科正直、内藤昌月、荊室廣琳大和尚は兄弟になるというわけですね。
長篠城址史跡保存館で購入した「内藤昌豊公とその子孫」によれば、内藤昌豊公には実子があったにもかかわらずなぜ保科家から昌月を養子に迎えたのかについて、信玄の死後勝頼の代になって昌豊が家の安泰のために、勝頼の側近であった昌月を養子に迎えたか、もしくは勝頼が昌豊を懐柔するために昌月を養子にすすめたのではないかとのことでした。


山本勘助桜

天文16年3月武田信玄は、高遠氏を滅ぼし、高遠城を拡張再構築するにあたり、縄張りを山本勘助に命じた。この時、勘助は今の桂泉院の地から地形を眺め、城の縄張りを行ったという。この地に桜の大樹があり、それを勘助桜と呼んだという。
(桂泉院縁起書より)

 



2004年04月30日

高遠城内法憧院へ、荊室光琳和尚が上州(今の群馬県)から移ってきたのは文禄3(1594)年のことである。寺が城内にあるため人々に不便であったので、竜ヶ沢に移し、説法につとめた。ある晩夢の中に老人が現われ、清泉の湧口を教えた。果して桂の木の元から清水が湧き出した。やがてこの水が「桂水」と名付けられた。(城内の黄金水、満光寺境内の檜水と共に高遠の三名水といわれた。)
(看板資料より)


桂泉院梵鐘(長野県宝)

この梵鐘は天正10年3月織田信忠の軍が武田氏征伐のため天竜川に沿って北上した際下伊那郡川路村開善寺から奪い、陣鐘として運搬し破損の跡が見える。落城の後、城内法憧院郭にこの鐘を吊るしこれを打ち鳴らして敵味方の法要を営んだという。文和4(1335)年、藤原朝長の作で当時の形式を伝えている。昭和45年4月長野県宝に指定された。
(看板資料より)


位牌殿

帰り際に、お寺の人らしき人が、桂泉の水は冷たくておいしいと教えてくれたのですが残念なことにうっかり水を確認するのを忘れてしまいました。本当に残念でした。また位牌殿の後方には中央アルプスを望むことができ景色を楽しむこともできます。


高遠城
五郎山
大泉寺
内藤塚
建福寺

 

 
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