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山梨県甲府市

大泉寺

2013年09月01日

大泉寺総門

 
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この総門は永慶寺から移築されたと伝えられている。黄檗宗様式の門として建物細部の諸要素は宇治万福寺の総門に極めて近似している。
永慶寺は宝永7(1710)年、甲府城主柳沢吉保が建立した菩提寺である。現在の護国神社境内及びその周辺地にあったが、享保9(1724)年柳沢氏の大和郡山への転封に伴って移転を余儀なくされた。その際、遠光寺(伊勢2丁目)の山門・禅林院(古府中町)の本堂なども同時に移築されたと言われるが、現存するのはこの総門のみである。
(看板資料より)


本堂

大泉寺文書
大泉寺は、武田信虎が大永元(1521)年に菩提寺として開基した禅刹で広厳院とともに甲斐曹洞宗八百余ヶ寺の僧録司を勤め、常法憧七ヶ寺に列する名刹でもある。
天正2(1574)年3月信虎卒するや、ここに葬り、その墓所は県指定史跡である。永禄・文化・昭和の三度の大火にもかかわらず、なお多くの文化財が保存され『逍遥軒筆武田信虎像』『呉太素筆松梅図』のニ幅は重要文化財とされ、武田晴信以下多くの支配者曹洞宗高僧の書状は、この寺ならびに中世・近世の甲斐文化を極める上の重要な史料である。
(看板資料より)

金銅金具装笈
笈は本来修験者(山伏)が使用したものであるが、戦国時代には信仰心の厚い武将たちがこれに日頃信仰する仏像などを入れ、出陣の際に家来に背負わせ、戦場に持ち運んで崇拝したといわれる。
本寺の二個の笈は武田信虎を信玄父子が利用したと伝えられるもので、材質は檜、全面に黒漆と朱漆が塗られ鍍された銅板の切り抜き金具で装飾されている。これらは県内最古期に属する箱笈であり、美術工芸的な価値とともに、戦国大名の信仰形態の一端を物語る資料である。
(看板資料より)

絹本著色武田信虎像
信虎は駿河退隠後、異国にあること33年、81歳の天正2(1574)年3月、信州高遠の地で没した。この像は遺子信廉(逍遥軒信綱)が亡き父の冥福を祈る一念からその真容を写したもので、同年5月端午の日に妙心寺の春国光新和尚が著賛している。
絹地の彩色画で白の小袖に墨染の法衣を着け、掛絡をまとって団扇を手に上畳に座る法体像であるが、個性的な巨大な頭と、人を射る眼光、岩塊の如き両手、風貌などにも苦難の生涯と精悍勇武、かつ磊落な性格を描き尽して余すことがない。
筆者は戦国武将中の異彩、多芸な人物で絵に長じ、特に人物画に優れていたという。
(看板資料より)


武田信虎の墓

武田信虎の墓
信虎は、武田信縄の子として明応3(1494)年石和館に生まれた。永正4(1507)年武田氏の家督を継ぎ、武力をもって甲斐国の統一に成功したが、やがて嫡子晴信(信玄)と対立、駿河(静岡県)に追われた。
流浪の末、天正2(1574)年信濃国(長野県)伊那で病没し、ここ大泉寺に葬られた。法号を大泉寺殿泰雲存康庵主という。
彼はまた、永正16(1519)年、館を躑躅ヶ崎に移し、甲府を創設したことでも知られている。
信虎の墓は、中央の五輪塔(補修の際、上部を相輪状に変えた)がそれである。
(看板資料より)

 



2013年02月03日

武田信虎の墓
信虎は、武田信縄の子として明応3(1494)年石和館に生まれた。永正4(1507)年武田氏の家督を継ぎ、武力をもって甲斐国の統一に成功したが、やがて嫡子晴信(信玄)と対立、駿河(静岡県)に追われた。
流浪の末、天正2(1574)年信濃国(長野県)伊那で病没し、ここ大泉寺に葬られた。法号を大泉寺殿泰雲存康庵主という。
彼はまた、永正16(1519)年、館を躑躅ヶ崎に移し、甲府を創設したことでも知られている。
信虎の墓は、中央の五輪塔(補修の際、上部を相輪状に変えた)がそれである。
(看板資料より)



2005年01月09日

大泉寺総門

この総門は永慶寺から移築されたと伝えられている。黄檗宗様式の門として建物細部の諸要素は宇治万福寺の総門に極めて近似している。
永慶寺は宝永7(1710)年、甲府城主柳沢吉保が建立した菩提寺である。現在の護国神社境内及びその周辺地にあったが、享保9(1724)年柳沢氏の大和郡山への転封に伴って移転を余儀なくされた。その際、遠光寺(伊勢2丁目)の山門・禅林院(古府中町)の本堂なども同時に移築されたと言われるが、現存するのはこの総門のみである。
(看板資料より)


大泉寺文書
大泉寺は、武田信虎が大永元(1521)年に菩提寺として開基した禅刹で広厳院とともに甲斐曹洞宗八百余ヶ寺の僧録司を勤め、常法憧七ヶ寺に列する名刹でもある。
天正2(1574)年3月信虎卒するや、ここに葬り、その墓所は県指定史跡である。永禄・文化・昭和の三度の大火にもかかわらず、なお多くの文化財が保存され『逍遥軒筆武田信虎像』『呉太素筆松梅図』のニ幅は重要文化財とされ、武田晴信以下多くの支配者曹洞宗高僧の書状は、この寺ならびに中世・近世の甲斐文化を極める上の重要な史料である。
(看板資料より)

金銅金具装笈
笈は本来修験者(山伏)が使用したものであるが、戦国時代には信仰心の厚い武将たちがこれに日頃信仰する仏像などを入れ、出陣の際に家来に背負わせ、戦場に持ち運んで崇拝したといわれる。
本寺の二個の笈は武田信虎を信玄父子が利用したと伝えられるもので、材質は檜、全面に黒漆と朱漆が塗られ鍍された銅板の切り抜き金具で装飾されている。これらは県内最古期に属する箱笈であり、美術工芸的な価値とともに、戦国大名の信仰形態の一端を物語る資料である。
(看板資料より)

絹本著色武田信虎像
信虎は駿河退隠後、異国にあること33年、81歳の天正2(1574)年3月、信州高遠の地で没した。この像は遺子信廉(逍遥軒信綱)が亡き父の冥福を祈る一念からその真容を写したもので、同年5月端午の日に妙心寺の春国光新和尚が著賛している。
絹地の彩色画で白の小袖に墨染の法衣を着け、掛絡をまとって団扇を手に上畳に座る法体像であるが、個性的な巨大な頭と、人を射る眼光、岩塊の如き両手、風貌などにも苦難の生涯と精悍勇武、かつ磊落な性格を描き尽して余すことがない。
筆者は戦国武将中の異彩、多芸な人物で絵に長じ、特に人物画に優れていたという。
(看板資料より)


武田信虎の墓

本史跡は室町時代末戦国の世に活躍した武田信玄の父信虎の墓域である。信虎は武田五郎信縄の長男として明応3年1月6日石和の居館で生まれ幼名を川田五郎と呼ばれた。
永正4年14才のとき武田氏18代の甲斐国主となり国内の同族を統御し永正17年従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられた彼は性来豪毅勇武にして乱世にその領土を広げ武蔵、相模、駿河、信濃と隣国を征し大いに武威を発揚したが嗣子晴信(信玄)と意合わず天文10年48才の折駿河の今川氏の許に隠退し僧形となり号を我卜済と称して京都方面に流寓後年信濃高遠城に81才の高齢をもって病歿するまで帰国しなかったと伝えられている。
その歿年は天正2年3月5日という。
大泉寺殿泰雲存康大庵主はその法号である。
彼はまた永正16(1519)年、館を躑躅ヶ崎に移し、甲府を創設したことでも知られている。信虎の墓は中央の五輪塔(補修の際、上部を相輪状に変えた)がそれである。
尚、当寺に彼の肖像画をその子信廉逍遥軒が描き残しているが重要文化財に指定されている。
(看板資料より)

正面の総門付近には車を止めるスペースはなく、向って右側から奥に進むと駐車場がありました。途中から道路は完全に凍結してしまっていましたが駐車場まで問題なくたどり着けました。車で奥まで行ってしまったので総門から歩いていくことができませんでしたがそのまま奥に歩いて行きました。既に以前来たことがあったので武田信虎の墓の場所も知っていたので裏側にまわって外側から写真を撮りました。しかしどうしても中に入りたかったので総門の近くで掃除をしていた方に許しを得て墓所の入口を開けて中に入って間近から拝見させていただきました。見学終了後墓所から出ようとしたら、外に人の気配がし、なんと外側から閉められてしまっていたのです。まだ近くにいたので声をかけて開けてもらい脱出することができました。最近浮浪者が入り込むので警戒しているのだそうです。そういえば墓所の中には糸のようなものが張り巡らされていたのですがひょっとしたらセンサーのようなものが設置されていたのでしょうか?
住職?と思われる人はその後、法性不動尊も紹介してくれました。彼の話によれば三つの石碑は中央が武田信虎、両脇にあるものが武田信玄と武田勝頼のものであり、信虎、信玄、勝頼三代の墓であるとのことでした。

 


2001年02月18日

大泉寺は大永元年(1521)に信虎が菩提寺として開基したお寺である。
ここには武田信虎の墓があるといわれている。墓所には信虎、信玄、勝頼三代の墓石が並んで立っている。
永禄、文化、昭和の三度の大火にもかかわらず、信廉が描いた信虎の肖像画などが保存されており重要文化財に指定されている。


大泉寺総門

この総門は永慶寺から移築されたと伝えられている。永慶寺は宝永7年(1710)に甲府城主柳沢吉保が建立した菩提寺であり、現在の護国神社境内及びその周辺にあったが、享保9年(1724)柳沢氏が大和郡山へ転封になったため移転することになり、それに伴い総門がここに移転され今も現存している。



信虎、信玄、勝頼三代の墓
始めはここの門も閉まっていたのですが裏にまわってみたら住職さんらしき方に会うことができ門を開けてもらった。


桂泉院
法泉寺
武田信玄・勝頼供養塔
景徳院

 

 
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