入明寺の由来
法流山入明寺は、浄土真宗の寺で、御本尊は阿弥陀如来。長享元年、村上天皇の子孫である六条有成卿が、本願寺中興の祖第八世蓮如上人によって得度し、浄閑と名乗り甲州路に入り、武田信玄の庇護のもとに稲積の庄青沼の里(前甲府商業高等学校)に草庵を建立して開山した寺で「長元寺」といった。
二代目誓閑の時代に現在地住吉本町に移った。三代目栄閑の時、入明寺と改め、四代栄順の時、「内藤」と名乗り今日に至っている。
信玄の念願は京にのぼり、天下に武田菱の旗をうちたてることであった。当時京地を風びしていた「一向宗」とのつながりを持つことが必要であった。そこで信玄は入明寺住職が京都の公卿の出であったので、密かにその旨を伝えた。
二代誓閑、三代栄閑(兄弟)の二人であいはかり、石山本願寺第11代法主顕如上人の裏方が三条左大臣従一位公頼卿の息女だったので、裏方にお願いしてその妹と信玄との婚姻をとりもった。
天文5(1536)年、京からはるばる甲州路に輿入れされ、今川義元の媒酌により結婚式があげられた。これが信玄の正室三条夫人で太郎義信、次郎信親の母である。
本来ならば、次郎信親が家督を継ぐべきであったが、幼少より目を患い、生母三条夫人の神仏祈願の甲斐もなく、盲目となってしまったので勝頼があとを継いだ。
信玄は不具の子供である信親をことのほか可愛がり、永禄4年信州の海野の城を攻め落とした時、信親をこの城の城主とし、海野二郎信親と名乗らせた。また髪をそって、半僧半俗の生活をしていたのと、居城が城北の聖道小路にあったことから「お聖道様」とも呼ばれていた。
信親は生来温厚で、武田一門の「和作り」に努力したので、武田家の家臣は信親を非常に尊敬していた。
戦局いよいよ武田家に不利の時、入明寺4代栄順は、武田家への報恩はこの時と、信州海野城より信親を寺に迎えかくまった。
天正10(1582)年3月11日、天目山の悲報が伝わったその夜、信親は入明寺境内で従容として割腹自殺した。行年42歳。栄順は遺骨を寺内に埋め、法号を「長元院殿釈離潭竜宝大居士」といい、「紅梅一本植えて墓標となす。」と甲斐国誌に明記されている。これは敵に悟られないためであった。
入明寺には信親公の墓、位牌、それに武田家八代護信作の信親の木造がある。
国、ならびに山梨県は詮議の結果、入明寺記録と甲斐国誌等の資料により、信玄の正統は竜宝公の子孫であることが確認され、御贈位の御沙汰をした。
現在、15代昌信氏が東京都経堂に在住している。
(看板資料より) |