景徳院 |
2014年12月27日 |
景徳院(田野寺)は、曹洞宗下総国総寧寺の末寺で、開基は徳川家康、開山は炊けだの臣小宮山内膳の弟で、中山広厳院第7世拈橋和尚である。また、同寺一帯は武田家滅亡の地として有名で、山梨県の史跡でもある。 |
山門
建立当時(天正16年)境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみが幾多の火災を免れ当時の面影を残しています。 |
旗竪松
勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処。 |
本堂
景徳院境内 |
長篠武田墓参団20回記念
本堂の右側に、長篠武田墓参団20回記念と書かれた石碑がありました。石碑には鳳来町文化協会という文字が刻まれていました。そういえば設楽原、長篠古戦場の内藤昌豊陣地に大和村特産の甲斐鞍馬石で建立した石碑があったことを思い出しました。長篠古戦場と大和村との交流を感じさせるものです。 |
岩舟地蔵
武田勝頼公生害石
おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端
北条夫人生害石
勝頼夫人辞世の歌
黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒 |
武田信勝公生害石
あだに見よ誰も嵐の桜花咲き散るほどの春の夜の夢
武田勝頼の墓
武田勝頼の墓 |
甲将殿
没頭地蔵
2007年12月01日 |
没頭地蔵
旧大和村の近くまで来たので久しぶりに景徳院に寄ってみることにしました。前回来たときはちょうど1年くらい前で寒い時期でした。その時は既に甲将殿の裏にあった武田勝頼の墓がなくなっていて工事中だったのを覚えています。住職の方にまた温かくなったら来るようにと言われていたのですがまた寒い時期に来てしまいました。いつもは山門の方から登っていくのですが、今回は没頭地蔵尊の方から登って行きました。没頭地蔵尊は扉が開けられていて、お花が供えられてきれいになっていました。ここで参拝した後そのまま坂を登り切ると甲将殿の裏は未だにビニールシートで覆われていました。その代わり補修が終了したと思われる武田勝頼、信勝、北条夫人の墓などは甲将殿の左前あたりに移設されていました。甲将殿の裏が調査中の間はしばらくここに置かれるとのことでした。以前は建物のすぐ裏側にあったので見づらかったのですがこうやって正面から見るとずいぶん立派な墓であったことを実感しました。補修したためか以前より少し白っぽく感じました。その後本堂で参拝した後に、パンフレットを購入するため庫裡に声をかけてみたら住職の方が出てきてくれました。100円でパンフレットを購入した後に、武田勝頼の墓のことでお話を聞いてみたら、本殿に入って右側に資料等があるので入って見るように勧められました。さっそく本堂に上がらせてもらって右側の部屋の襖を空けてみると、武田勝頼の墓の調査時の様子の資料などが保管されていました。 |
武田勝頼の墓
武田菱水瓶
日川渓谷の高台に、織田軍を迎え撃つ勝頼主従の武田軍が、この水瓶で末期の水を交わしたと伝えられる。悲運の武田一族を見届けた一品。 |
2007年01月07日 |
武田勝頼親子の位牌
今回景徳院に寄る予定は無かったのですが、鞍掛、血洗沢を見学した際や、旧大和村役場に寄って資料を頂いた際にも景徳院に寄ることを勧められたのでこれも何かの縁と思って立ち寄ることにしました。以前訪れた時には入口付近の補修工事をしていましたがすっかりきれいになっていました。相変わらず雪が降っていて風も強くなりました。運良く住職がおられたのでお話を聞かせてもらえるかどうか聞いてみたところ、本堂に来るようにいわれたので本堂に行きました。ここには何度も来ましたが本堂に入ったのは初めてでした。簡単に景徳院ができた由来についてのお話をお聞きすることができました。その後仏壇中央にある、武田勝頼(中央)、武田信勝(左)、北条夫人(右)それぞれの位牌を見せてもらいました。写真を撮っても良いということでしたので撮らせてもらいました。 |
家臣達の位牌
また、仏壇の右奥には武田勝頼親子とともに殉死したといわれる家臣達の位牌もあったのでこちらの写真も撮らせていただきました。貫名新蔵、多田久蔵、秋山民部、秋山源三郎、小原丹後守などの名前を確認することができました。
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2005年05月29日 |
天童山景徳院堂宇再建の趣意 今まで景徳院には何度も訪れましたがいずれも夕方頃になってしまっていました。今回のように昼の明るい時間帯に訪れたのは初めてかもしれません。今回分かったのは私は山門より奥に行ったことがなかったということでした。山門を通り過ぎて本堂まで行ってみると、勝頼の子である武田信勝が盾無の鎧を着たという旗竪松があり、本堂の裏には庭園があり岩舟地蔵などもありました。本堂の左側を訪ねて、景徳院の案内と日付入りの御朱印を購入した。 |
旗竪松
勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処。 |
長篠武田墓参団20回記念
本堂の右側に、長篠武田墓参団20回記念と書かれた石碑がありました。石碑には鳳来町文化協会という文字が刻まれていました。そういえば設楽原、長篠古戦場の内藤昌豊陣地に大和村特産の甲斐鞍馬石で建立した石碑があったことを思い出しました。長篠古戦場と大和村との交流を感じさせるものです。 |
岩舟地蔵
景徳院山門
建立当時(天正16年)境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみが幾多の火災を免れ当時の面影を残しています。 |
武田勝頼公生害石
北条夫人生害石
武田信勝公生害石
武田勝頼の墓
中央が武田勝頼、右側が北条夫人、左側が武田信勝の墓であり、その両側には殉難者たちの墓があります。景徳院の武田勝頼の墓は甲将殿という建物のすぐ裏側にあるのでなかなか写真が撮れなかったのですが、今回は甲将殿に入らせてもらって通路の部分から撮影させてもらいました。 |
2003年08月30日 |
景徳院境内 天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍と激戦の末、武田家の歴史を閉じた。同年7月徳川家康公が入国の際、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立されたのがこの寺である。 本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約50名が自害した地である。 |
甲将殿
辞世の歌 勝頼夫人 黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒 勝頼公 信勝公 |
武田勝頼の墓 |
勝頼親子が自害した場所といわれている生害石
北条夫人生害石
武田勝頼公生害石
武田信勝公生害石
没頭地蔵尊
この石仏は首無地蔵といわれ勝頼公子夫人の遺骸を葬った所です。
1999年09月05日
勝頼、信勝は天目山で最後を遂げるが、勝頼、その嫡男である信勝、そして勝頼夫人の墓があるのがこの景徳院である。勝頼夫人はこの当時敵となってしまっている北条氏政の妹である。勝頼婦人は兄である氏政に攻め滅ぼされてしまうのである。 |
武田勝頼の墓
→法泉寺
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