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山梨県甲州市

土屋惣蔵片手切

2014年12月27日

土屋惣蔵昌恒(弘治2〜天正10)(1556〜1582)は金丸虎義の第5子、15歳の時に土屋備前の養子となり土屋姓を名乗る。長篠の役で義父と養兄の戦死に逢い、敵陣に切り込もうとしたが勝頼に制止されて断念し、以降侍大将として活躍する。
天正10(1582)年3月11日、峡北の新府城を出た武田勝頼一行は、郡内岩殿城を目指したが、行手を阻まれやむを得ず天目山栖雲寺を目指して大蔵原まで来たところ、行手より迫って来た辻弥兵衛軍のため先に進めず、田野の郷に引き返すこととなる。この時、土屋惣蔵は主君の危機を救わんと山道の狭ばまった岩かどに身を隠し、片手で藤づるにつかまり、片手で迫り来る敵を軌って下の谷へ落としたと伝えられている。土屋惣蔵1人の奮闘により、勝頼一行は田野の郷までたどり着き、この地を最後の地としたのである。
両側からせまる崖に通ずる小道の、自然の楯に似たこの場所で攻め寄せる敵を斬り倒し、その数は千人にもなったというところから「土屋惣蔵片手千人斬り」と語りつがれ、谷を流れている渓流は、切られた敵兵の流した血湖で染まり、川の水は3日の間赤い色で流れたので、別の名を三日川とか、三日血川と呼ばれたといわれている。
(大和村の文化財より)

 



2005年05月29日


ありし日の土屋惣蔵片手切

大正3年1月に撮影された土屋惣蔵片手切の写真が看板に掲載されていました。

 



2003年08月30日

 

時、天正10(1582)年3月3日入城間もない新府城(韮崎市)に火を放ち、岩殿城(大月市)を目指して進んできた武田勝頼一族は岩殿城主小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた。3月10日、それまで逗留していた笹子峠のふもと駒郷(今の日影)を後にした勝頼一族は少なくなってしまった家臣を従えて峡谷ぞいに田野の郷に入った。あくれば3月11日、この地より先の天目山栖雲寺に向かったが織田・徳川の連合軍に行く手を阻まれ大蔵沢より先に進むことができなくなり田野の郷に引き返した。
この時、家臣土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと最も崖道の狭い所で岩角に身を隠し片手は藤蔓につかまり、片手には刀を持ち迫りくる敵兵を次々に切っては谷川に蹴落したと伝えられ谷川の水は3日間も血で赤く染まったといわれている。
土屋惣蔵の活躍奮闘により武田勝頼主従は田野の郷までもどり従容として自刃したという。数丈の崖、自然の楯のようなこの場所でよせくる敵兵を防ぎたくさんの人を片手で切ったことから「土屋惣蔵片手千人切」といわれている。
(看板資料より)

 



1984年3月30日

 

土屋惣蔵昌恒片手切の古跡
天正10年3月、入城間もない新府城(韮崎市)に自らの手で火を放ち、岩殿城(大月市)を目指して進んできた武田勝頼一族は城主小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた。同月10日駒郷(今の日影)を後にした一族は途中一泊し、これより先の天目山栖雲寺に向かったが、織田、徳川の連合軍に包囲され先に進むことができなくなったので田野の地に引き返した。
この時家臣土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと岩角に身を隠し片手は藤蔓につかまり片手は刀を持ち迫り来る敵兵を切っては下の川へ蹴落としたので敵兵は備えあるものと察し退却したと伝えられ片手で切ったことから片手切といわれている。土屋惣蔵の活躍により勝頼主従は従容として自刃したという。
(看板資料より)

先日実家にあったアルバムを見ていたら、1984年に4泊5日の家族旅行で、武田信玄史跡めぐりを行い、愛知県長篠、鳳来寺から静岡県、山梨県全部で30ヶ所以上もまわっていた記録が出てきました。当時は既に私も武田信玄について興味はありましたがまさか土屋惣蔵昌恒片手切まで見に来ていたとは知りませんでした。当時の写真をみると現在の看板とは少し違ったものだったのですね。それに書いてある文章も違ったようです。


土屋惣蔵の墓
鳥居畑古戦場
景徳院
光明寺
赤坂稲荷社

 

 
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