←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県韮崎市

光明寺

2013年09月07日

 
より大きな地図で 保存した場所 を表示

開基木曽千太郎公縁起
武田信玄公、三女真理姫が木曽の城主、木曽義昌公に嫁したことにより両家は姻戚にあった。
天正10(1582)年武田勝頼公が、新府居城の際、義昌公は嫡子千太郎(13歳)と老母(70歳)及び息女(17歳)を人質として新府城下の上野豊後守宅に預けられた。
しかし義昌公は武田家が風雲を告げる頃となるや離叛を企て織田、徳川連合軍と手を結んだ。勝頼公これを知るや、怒り心頭に徹し、天正10年3月朔日、人質を役邸からほど近い、おどり原に引き立て、家臣土屋惣蔵の介錯により御生害させた。その後家人が三の塚を築いて手厚く葬り、更に小幡景憲が石碑を建て、故あって光明寺墓所に移す。
俗名、木曽千太郎の法名、光明寺殿木曽浄高大禅定門を当寺開基とする。その後、百五十回忌に相当たり追善供養を営みその折、大本山より法名に大居士の位を賜る。また千太郎公御守佛聖観音一躰並びに紫硯一面が当寺の重宝とされている。
右、観世音菩薩を当時の本尊脇佛として毎年2月18日を御縁日として法要を厳修し観音講の行事が営まれている。木曽千太郎公の法名は光明寺殿木曽浄高大居士と改められ、老母の法名は宝光院殿玉輪妙関大姉、息女の法名は六観院殿幻屋法如大姉となり共にこの本堂奥手の墓所に安置され、戦国の世の哀れな御尊霊の菩提を弔うため、法灯は揺ぎなく今日に及んでいる。
(石碑記載文章より)

木曽千太郎之墓由来
天正10年2月、今より四百二十余年前、武田信玄公と姻戚関係にあった木曽福島の城主木曽義昌(木曽義仲の末裔)は、織田・徳川の連合軍と手を結んだため離叛者となり、これを知った勝頼公は怒り心頭に徹し、未完成である新付城の防戦は不可能と察して城に火を放ち郡内岩殿城主小山田信茂を頼り再挙を計った。
その時人質として預かった義昌公の母70歳、嫡子千太郎13歳、娘17歳を、上野豊後守宅より連れ出しおどりが原において土屋惣蔵の介錯により自決せしめた。勝頼公は後事を上野家に託し、戦国の世の哀れな御尊霊の菩提を弔うため光明寺の開基として墓所に安置されたのである。
(石碑記載文章より)

 



2004年10月23日

光明寺は七里岩ラインを須玉町から韮崎に向って、新府城を通り過ぎて少し行ったところの右側にありました。入口は新しく作られたばかりのような感じで、階段を登っていくと「木曽氏の墓」という案内板があるので場所はすぐに分かります。境内の他の墓のなかにまぎれていますが、史跡・木曽氏の墓と書かれていて墓の中には案内板もありました。


木曽千太郎之墓由来

天正10年3月今より約400年の昔、武田勝頼公は新府を居城にしていた。たまたま信州で要害の聞こえ高かった高遠城が織田軍のため落城したとの悲報に接し落膽した。勝頼公は未完成の新府城には防戦が不可能であることを察し、城に火を放って郡内岩殿の小山田信茂居城にて再挙をはかることにした。その当時人質として預かっていた離反者木曽福島の城主木曽義昌の嫡子千太郎13才、娘17才、祖母70才を上野豊後守宅より連れ戻し躍ヶ原において土屋惣蔵の介錯によって自決を命じた。勝頼公は後事を上野家に託したので後年光明寺に墓碑を建て開基として霊を慰めたのである。
(看板資料より)

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→