光明寺 |
2013年09月07日 |
より大きな地図で 保存した場所 を表示
開基木曽千太郎公縁起 |
木曽千太郎之墓由来
|
2004年10月23日 |
光明寺は七里岩ラインを須玉町から韮崎に向って、新府城を通り過ぎて少し行ったところの右側にありました。入口は新しく作られたばかりのような感じで、階段を登っていくと「木曽氏の墓」という案内板があるので場所はすぐに分かります。境内の他の墓のなかにまぎれていますが、史跡・木曽氏の墓と書かれていて墓の中には案内板もありました。 |
木曽千太郎之墓由来 天正10年3月今より約400年の昔、武田勝頼公は新府を居城にしていた。たまたま信州で要害の聞こえ高かった高遠城が織田軍のため落城したとの悲報に接し落膽した。勝頼公は未完成の新府城には防戦が不可能であることを察し、城に火を放って郡内岩殿の小山田信茂居城にて再挙をはかることにした。その当時人質として預かっていた離反者木曽福島の城主木曽義昌の嫡子千太郎13才、娘17才、祖母70才を上野豊後守宅より連れ戻し躍ヶ原において土屋惣蔵の介錯によって自決を命じた。勝頼公は後事を上野家に託したので後年光明寺に墓碑を建て開基として霊を慰めたのである。
|