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山梨県甲州市

栖雲寺

2014年12月27日

本堂

貞和4(1348)年、業海本浄禅師が開山した禅寺で、業海は文保2(1318)年に元の国に渡り中峯普応国師に師事し、元の天目山で修行して帰国後武田家の招聘によりこの寺を開いた。以来、武田家の信望が厚く境内には武田信満の墓、重要文化財の普応国師の坐像のほか、県指定文化財の業海本浄和尚木造、地蔵菩薩磨崖仏など多くの文化財がある。庫理右手の裏山には、禅僧の修行の場として使われた石庭がある。
(看板資料より)


武田信満の墓

武田信満は、甲斐守護武田家第13代の当主である。「鎌倉大草紙」によれば、応永23(1416)年、上杉禅秀の乱に際し、信満は禅秀に加担して戦いに敗れ、翌24(1417)年1月、禅秀は敗れて自殺し、信満も甲斐に戻って都留郡で防戦したが衆寡敵せず、2月6日木賊山自刃した。今から586年前のことである。辞世の句に「梓弓ひきそめし身のそのままに五十あまりの夢やさまさん」とある。
栖雲寺に信満の墓がある。境内乾(北西)の隅に木の柵で囲まれた約20坪ほどがその墓所である。
中央に大きい宝篋印塔が2基(総高1m強)、周囲に小型の宝篋印塔22基、五輪塔6基が安置され、他に破損した塔残片が墓所内に散在する。すべての塔が、宝珠や九輪を欠き、隅飾突起や笠形の角などを失っているが、その形態はすこぶる完好で古様を示し、中世室町期の作を思わせる。中央2基のうち向って右塔の塔身4面に梵字が刻まれ、それが信満の墓とされ、周囲の墓はともに自害した一族、家臣を祀る塔といわれている。長い間風雪に耐え、今に残る墓塔の前に立つと、開山業海を崇敬して止まず、だからこそ、栖雲寺に死地を求めながら、木賊山で自刃して果てた信満の心情がしのばれ心が痛む。
(大和村の文化財より)

武田信満の墓


庫理


山梨県指定名勝 栖雲寺庭園

栖雲寺は南北朝時代の貞和4(1348)年に業海本浄和尚の創立した禅刹で、中世禅文化の豊庫ともいわれている。この庭は寺域の北東部に拡がる花崗岩縁岩地域の一帯で面積約2ヘクタール、大小の岩塊が累々と横たわる。その中心は北部の三尊石で、近く発する涸流れをややくだった中ほどの鯛魚石は天を衝く気迫をみせ、ほど近い南東方には須弥山があり山を囲む列石が弧状をえがいて丸山八海に見たてられるなど、仏教の世界観に通ずるものがある。
多くの岩塊の間に地蔵尊や文殊菩薩の線彫りの磨崖仏が拝され、巨大な霊石泉、盆怒石、開山座禅石などもある。
この庭は修行の場としても注目されるもので、卓越する甲斐の庭園文化の中にあって一類型ともみられる代表的な大規模の遺構として評価される。
(看板資料より)


栖雲寺文殊菩薩磨崖仏

巨大な岩壁に線刻りに近い薄肉彫りで、総高0.9m、衣端のひろがりは約0.7m、頭光をそなえている。文殊菩薩は、通形蓮華座に坐し、頭に五髻を結び、右手に知剣、左手に青蓮華を持って獅子座に駕しておられるが、この像は異形の「児文殊」であろうか。近くの地蔵菩薩磨崖仏の正面形に対して、面を半ば左方に向けられて妙相端巖、とくにご面相が麗わしい。
風化しやすい岩質のため剥落がすすんではいるが、深か刻りのためかよく数百年の歳月にたえて現存するのは、まことに幸いといえる。
磨崖仏の少ない本県にとって貴重なものであり、信仰史の上からも得難い資料である。
(看板資料より)

 



2005年05月29日

貞和4(1348)年、業海本浄禅師が開山した禅寺で、業海は文保2(1318)年に元の国に渡り中峯普応国師に師事し、元の天目山で修行して帰国後武田家の招聘によりこの寺を開いた。以来、武田家の信望が厚く境内には武田信満の墓、重要文化財の普応国師の坐像のほか、県指定文化財の業海本浄和尚木造、地蔵菩薩磨崖仏など多くの文化財がある。庫理右手の裏山には、禅僧の修行の場として使われた石庭がある。
(看板資料より)

6年前に訪れた時に工事中であった建物は庫理であり、既に工事は終了していて今回きれいな姿を見ることができました。今度は左側の建物の再建工事がなされていました。この栖雲寺には多くの文化財が保存されており、今回見せてもらえないかどうか尋ねてみましたが事前に連絡をしておけば見せてもらえるとのことでした。


武田信満の墓

鎌倉大草紙に応永23(1416)年10月、上杉氏憲(禅秀)の乱あり、舅であった甲斐守護武田信満は氏憲に加担し、都留郡にて戦ったが、多勢に無勢で敗れ、応永24(1417)年2月6日天目山にて自害するとあり、辞世に、
梓弓ひきそめし身のそのままに五十あまりの夢や覚さん
法名 明庵道光
信満の宝篋印塔は、高さ1m3cmであり、上部の伏針は形もよく、塔身の四面には梵字がはっきりと刻んである。周囲に家臣の塔があり、宝篋印塔が22茎、五輪の塔が6基その他破損したもの数基あり。
(看板資料より)


棲雲寺宝篋印塔
棲雲寺開山宝篋印塔
棲雲寺は、元に留学した業海本浄和尚が貞和4(1348)年に創建した臨済宗の古寺である。
棲雲寺宝篋印塔
向って右の本塔には、正面に「普同塔」、背面に「文和癸巴歳、自恣日建立」と刻まれ、造立年代が明らかである。即ち「文和癸巴歳」とは文和2(1353)年で、本寺建立当初のものと考えられる。多少の欠損はあるが、関西形式の代表的遺構として本県のごとき関東系の多い中では、誠に珍しい秀作である。
棲雲寺開山宝篋印塔
本塔身正面に、「開山業海浄禅師塔観応壬辰(1352年)7月日誌」の銘文があり、前者と共に六百余年前の塔婆を伝える石造美術の貴重な遺品である。
(看板資料より)


栖雲寺銅鐘

この鐘は、中世期に造られた古い貴重な鐘で、久遠寺鐘(身延町)、光厳院鐘(笛吹市)、放光寺鐘(塩山市)、永昌院鐘(山梨市)とともに「甲斐の五鐘」の1つに数えられる名鐘である。
栖雲寺は貞和4(1348)年に業海本浄和尚の開いた禅刹である。延文4(1359)年大工の沙弥道金によって当寺において鋳造されたと伝えられている。また、銘文最末尾に「檀那は沙弥道林幹縁比丘之元」とある。
この梵鐘は総高107.6cm、口径59.1cm、鐘の形状は比較的小型だが、全体の姿がすっきりと均整がとれて美しい。銘文文字の大きさが統一を欠いているが、刻まれた文字はとても伸びやかな達筆で、格調高い銘文の内容とともに気品に満ちて拝する人の心を打つ。
(看板資料より)


山梨県指定名勝 栖雲寺庭園

栖雲寺は南北朝時代の貞和4(1348)年に業海本浄和尚の創立した禅刹で、中世禅文化の豊庫ともいわれている。この庭は寺域の北東部に拡がる花崗岩縁岩地域の一帯で面積約2ヘクタール、大小の岩塊が累々と横たわる。その中心は北部の三尊石で、近く発する涸流れをややくだった中ほどの鯛魚石は天を衝く気迫をみせ、ほど近い南東方には須弥山があり山を囲む列石が弧状をえがいて丸山八海に見たてられるなど、仏教の世界観に通ずるものがある。
多くの岩塊の間に地蔵尊や文殊菩薩の線彫りの磨崖仏が拝され、巨大な霊石泉、盆怒石、開山座禅石などもある。
この庭は修行の場としても注目されるもので、卓越する甲斐の庭園文化の中にあって一類型ともみられる代表的な大規模の遺構として評価される。
(看板資料より)


地蔵菩薩磨崖仏

栖雲寺は鎌倉末期の文保年間、法を求めて中国に渡った業海本浄和尚によって貞和4(1348)年に開かれた禅寺である。この地蔵菩薩磨崖仏は、硬質の石英閃緑岩の岩壁に刻まれており、蓮華座上に座した線彫りの尊顔は長めであるが、ふくよかで印象的な耳朶とよく調和を保ち、衣文のさばきをはじめ総じて表現は写実的であり、地蔵尊独特な慈相のうちに強い迫力を蔵している。鎌倉末期から室町時代に入り民間信仰の王座を占めた地蔵信仰の先駆的意義があり県下における年代の明確な、しかも最古に属する秀作として、また、無類な磨崖仏として石造美術上も高く評価すべきものである。
(看板資料より)


栖雲寺文殊菩薩磨崖仏

巨大な岩壁に線刻りに近い薄肉彫りで、総高0.9m、衣端のひろがりは約0.7m、頭光をそなえている。文殊菩薩は、通形蓮華座に坐し、頭に五髻を結び、右手に知剣、左手に青蓮華を持って獅子座に駕しておられるが、この像は異形の「児文殊」であろうか。近くの地蔵菩薩磨崖仏の正面形に対して、面を半ば左方に向けられて妙相端巖、とくにご面相が麗わしい。
風化しやすい岩質のため剥落がすすんではいるが、深か刻りのためかよく数百年の歳月にたえて現存するのは、まことに幸いといえる。
磨崖仏の少ない本県にとって貴重なものであり、信仰史の上からも得難い資料である。
(看板資料より)

山王神社



1999年09月05日

ここには、武田信満の墓がある。信満は室町時代中期の人で武田家の衰退時期に苦労した人物である。
信満は信玄から数えて6代前の人であるが、このころ上杉禅秀の乱に巻き込まれ、この栖雲寺で自殺したのである。信満の死によって武田は衰退してしまう。
もともと甲斐は関東管領の管轄下にあったが、この関東管領というのは足利尊氏が京都に幕府を開いたため、関東に幕府の支所のような意味で弟の直義を置いたのが始まりである。その後嫡男の義詮、その弟の基氏が引き継ぎ、代々基氏の子孫が世襲することになる。その後関東8国に甲斐、伊豆、奥州探題の管理下である陸奥、出羽も含めて12ヶ国を管轄し、京都の将軍に対抗して関東公方と称し、このころは管領の執事である上杉氏が関東管領を名乗っていた。このころは基氏の曾孫である持氏の代であるが前執事であった上杉禅秀が足利持氏に反旗をひるがえし、鎌倉を占拠してしまったのである。武田信満は上杉氏とは姻戚関係もあったので、上杉禅秀に味方した。
ところが幕府は足利持氏を支援する方針を固め禅秀討伐の命令を発し上杉方は大敗してしまった。武田信満も負けて甲斐に帰国する途中、この栖雲寺で自殺したのであった。

武田信満の墓

 

 
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