岩殿城 |
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明治12年に乃木希典が岩殿山に登っているが、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」と感嘆したという。 岩殿山歴史景観保存地区 |
岩殿山 |
岩殿城 |
山頂から大月市内の眺め
揚城戸跡
第二の関門とよばれ、巨大な自然石を利用して城門をきずいていた。 |
番所跡
雨、露をさけるための建物があり、揚城戸の番兵の詰所であった。 |
この頂部西端には礫岩の大露頭がみられた。史実として記録はないが、岩殿城の西の物見台とも。あるいは円通寺で研修する修験者の修行場ともいわれた岩であった。 |
馬屋
馬場跡
本城内で一番広い面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ非常にそなえた。 |
倉屋敷跡
武器や弾薬、食糧、燃料のほか生活用品などの保管がされた。 |
本丸跡
三箇所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。 |
空濠
本丸の東側から進入する敵にそなえ、また日常の生活通路として利用した。 この先に進むと七社権現洞窟、岩殿円通寺跡に行けるそうですが山を下ってしまうのでその先には行きませんでした。円通寺は明治維新の廃仏棄却運動で消滅してしまいましたが当時は修験者の道場であったとのことです。岩殿山は城として機能する以前から修験者たちの修行の場であったのです。「ふれあいの館」の2階で上映していたビデオによれば、小仏峠を越えて滝山城に向った小山田軍の先導を努めたのもこれら修験者達だったのではないかとのことでした。 |
用水池
上の池を亀ヶ池とよび飲用に、下の池を馬洗池とよび馬や兵士の水浴用とした。 |
2004年12月26日 |
ふれあい館から見た鏡岩
明治12年に乃木希典が岩殿山に登っているが、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」と感嘆したという。 岩殿山歴史景観保存地区 |
揚城戸跡
第二の関門とよばれ、巨大な自然石を利用して城門をきずいていた。 |
番所跡
雨、露をさけるための建物があり、揚城戸の番兵の詰所であった。 |
この頂部西端には礫岩の大露頭がみられた。史実として記録はないが、岩殿城の西の物見台とも。あるいは円通寺で研修する修験者の修行場ともいわれた岩であった。 |
乃木希典の碑
乃木希典が岩殿山に登ったときに詠んだ詩が石碑に刻まれている。 |
南物見台からの大月市内
岩殿城から大月市内を見下ろしてみると麓を流れる桂川の谷が深くて驚きました。天然の堀として岩殿城を更に要害堅固にしています。麓の川に架かる橋を歩いてみると恐いくらいの断崖絶壁であることが分かります。 |
馬場跡
本城内で一番広い面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ非常にそなえた。 |
倉屋敷跡
武器や弾薬、食糧、燃料のほか生活用品などの保管がされた。 |
本丸跡
三箇所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。 本丸跡には放送局などのアンテナが立ち並んでおりその脇に烽火台がありました。本丸といっても規模は小さいものです。 |
烽火台
空湟
本丸の東側から進入する敵にそなえ、また日常の生活通路として利用した。 この先に進むと七社権現洞窟、岩殿円通寺跡に行けるそうですが山を下ってしまうのでその先には行きませんでした。円通寺は明治維新の廃仏棄却運動で消滅してしまいましたが当時は修験者の道場であったとのことです。岩殿山は城として機能する以前から修験者たちの修行の場であったのです。「ふれあいの館」の2階で上映していたビデオによれば、小仏峠を越えて滝山城に向った小山田軍の先導を努めたのもこれら修験者達だったのではないかとのことでした。 |
用水池
上の池を亀ヶ池とよび飲用に、下の池を馬洗池とよび馬や兵士の水浴用とした。 大手門跡は発見できず、その先に少し進んでみましたが、兜岩や稚児落しまではかなり時間がかかりそうだったので途中で断念しました。その後、再びふれあいの館まで戻ってきましたが大勢のハイキングの人たちが登る準備をしていました。
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2000年10月14日 |
岩殿山 |
頂上一歩手前のところの揚城戸門です。
自然石を利用した城門だそうです。
岩殿城 |
この後、バビデ氏とは分かれて我々は再び中央高速に乗って長坂インターでおりて今日の宿泊地である小諸へ向った。途中、海ノ口城跡の看板があったので行ってみたが、すでに暗くなってしまっていて何も見つけることは出来ませんでした。残念。19時過ぎには小諸に到着し、この日は小諸ロイヤルホテルに宿泊しました。
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