山梨県大月市
2014年09月14日
小山田氏の残された婦女子は、予想された落城の道を脱出することになり、堅手門から追っ手門・築坂峠・兜岩・呼ばわり谷の大岩壁と、来たとき背にしていた子供が突然泣き出し、追っ手に察知される距離となった。 夫人は背より子供をおろしあやしたり乳房を含ませたりしたが泣きやまず、その上他の子供も泣き出し、敵の武士に発見されてしまった。夫人は思案に窮し、やむなく子供らをこの岩壁上から落とし大菩薩山塊の一つ「雁が腹すり山」方面に逃れ去った。この時最後の「末期の水」を子供らに飲ませた所を「水きれ堂」、子供を落とした百五十メートルに及ぶ急峻な岩壁を領民は「稚児落とし」と呼ぶようになった。 「稚児」という名称はこの北富士地方には縁のない言葉で、領主級の子供にだけ用いる敬称で、しかもこの地方の人達にはなじみのない言葉であった。 (「小山田氏と岩殿城」:鈴木美良 より抜粋)
天神峠から雁が腹すり山に向かった夫人はがっくりと力を落とし、暗い夜の山道に堪える体力も失いこの峠で只一人となった家臣と別れ自分の覚悟を決めた。 峠の頂上で従者の小幡某と別れ涙の内に受け取ったツヅラを持ち、小和田郷の東光寺へと急いだ。この峠を今でも「ツヅラ峠」と村人は悲しみをこめて呼ぶ。峠の麓には近世までこのツヅラを保管していた旧家があったという。 東光寺はかつて小山田氏・武田十八年戦争の終戦祝賀に建立した古寺名刹で、この付近には昭和初期まで「奥山の麦打唄」が残った郷である。 小山田氏優勢な頃岩殿築城と同時に信茂祖父越中守が岩殿の乾城として、岩殿十二ヶ寺の内最初に開山した小山田氏ゆかりの寺である。 同夫人はこの寺の床下で自刃して果てたという。 寺のご住職は地区の人達は、現在も夫人の墓を復元することが願いだと語る。小山田氏に関する墓碑が江戸時代中期に破損されたので、この時代に被害にあったのかもしれない。 一方「稚児落とし」の岩壁に捨てられた子供は、浅利郷の名家の子として成人したという。後年この稚児の鎧が残り、悲しい物語として伝承された。 当時は甲斐国を占領していた織田・徳川の権勢を恐れて語る郷人もなかったが、この稚児は後に「天神様」のやしろとして祀られたという。 (「小山田氏と岩殿城」:鈴木美良 より抜粋)