鳥居畑古戦場 |
2014年12月27日 |
天正10(1582)年3月11日、武田勝頼の一行を追撃するために、門井沢や不動沢の駒飼口から攻め寄せる織田・徳川の先鋒隊川尻・滝川の軍勢4,000に対し、武田勢は秋山紀伊守・阿部加賀守ら100人に足らない少数でこれを迎え撃ち、撃退させること数度におよんだ激戦地である。多勢に無勢と、戦いは武田方に利なく全員戦死となったが、この間に田野の勝頼一行は敵軍に撹乱されることなく死途についたと伝えられている。
|
2005年05月29日 |
この地まで主君に尽くしてきた武田家の家臣が小勢で、織田徳川勢数千人と激しく抗戦して敗れた武田家最後の激戦地です。 景徳院から少し下ったところにあります。ちょうど景徳院と四郎作古戦場の間に位置します。 |
2003年08月30日 |
時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼に着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦することに決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等43人、初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に入った。その時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
|