新府城 |
2020年06月20日〜21日 |
天正9年に武田氏の当主武田勝頼が新たに府中の中核として築造した新府城は、韮崎市を貫通する釜無川と塩川の2大河川の開削によって形作られた七里岩台地上にあり、その西崖を活かした要害の地に築城されている。 新府城跡の位置づけ |
新府城跡 |
東出構
新府城跡出構 |
新府城跡東出構と西出構の間の堀
天正9(1581)年に築城された新府城は、北から東の山裾に土塁をめぐらし、特に北側の堀中には2箇所の出構(東出構・西出構)と呼ばれる土手状の張り出しを構築している。発掘調査以前では、堀跡とされる一帯は、近世の絵図によって堀の存在は想定できるものの、範囲や形態等は不明であった。西出構と東出構の間には、堀の痕跡とみられる幅5〜5mほどの細長い区画が部分的に存在し一部に水路が流れており、発掘調査の結果、耕作土の下から埋没した堀跡が発見された。 |
西出構と西側の堀
新府城北側の堀には東西2つの張り出しがあり、ここは西出構とよばれています。幅約20m、長さ約28m、高さ約3.5mの規模があり、東側は一段低い幅5mの平場が設けられています。 |
新府城跡北側の堀
新府城跡の北側山裾には外側に向かって、帯郭・土塁・出構・堀などの諸施設が設けられているが、西堀(水堀)以外の堀跡は、周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど、廃城後の土地利用による改変で旧状は不明であった。 |
新府城跡西側
東側を塩川に、西側を釜無川に浸食された七里岩台地上に築かれた新府城は、急な崖を城壁に、その東西を南流する両河川を外堀とした天然の要害である。 |
新府城跡乾門 桝形虎口 |
桝形虎口
乾門 |
新府城跡乾門 二之門
二之門跡からは、礎石に伴い散在した状態で焼土や炭化材、角釘等が出土し、門が燃えて倒壊したことが明らかとなった。また、門跡(礎石)に取り付く左右の土塁は、礎石手前2m程から狭くなって70〜80度の角度で立ち上がることも判明しており、土塁の敷き幅と礎石の奥行き方向の長さが同じであることから、門の構造と一体となった土塁の構築方法をうかがうことができる。 |
木橋の橋台
乾門の郭の東端(向かって左側)とその東側の空堀をはさんだ対岸(向かって右側)に張り出しがある。この張り出しは、空堀を通行する木橋の橋台部と考えられる。堀の幅などを考慮すると、木橋の幅員は1.2m、長さ15mを想定することができる。 |
井戸跡
本遺構は、調査前の上端の直径が32mあるすり鉢状の大きな窪地で、発掘は現状の地表面から4mの深さになっても底に到達しなかった。七里岩台地の堅い地盤を掘りくぼめ、浸み出した水や雨水を集める構造であったと思われる。井戸底まで螺旋状の通路が設けられる巻巻井戸の可能性もあったが、その遺構を確認できていない。整備では、検出した井戸内側斜面を保護するために植栽(リュウノヒゲ等)し、見学通路として井戸の中に至る階段を北側に設けた。 |
丸馬出と三日月堀
丸馬出と三日月堀
2013年09月07日 |
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。 |
石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し、毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 |
本丸
史跡新府城 |
二の丸
西三の丸
南大手門
大手馬出し 大手望楼台
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2003年10月06日 |
駐車場からの新府城
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。 新府城は以前PSアドバイザー氏と来たことがありましたが、今回来てみて、前回は全部を見てまわっていなかったことが良く分かりました。 |
新府城跡出構(東出構え)
出構は城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートル隔てて並行に2本が築かれている。 (看板資料より) 真田昌幸が縄張りした城 |
新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城である。 ミステリースポットとしての新府城 |
石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し、毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 両脇には長篠役陣没将士の墓として、大塚と小塚があり、左側には勝頼公霊社から近い順に、馬場美濃守信房、山県三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、小山田五郎兵衛昌輝、五味貞氏と続き、右側には、武田兵庫頭信実、原隼人佐昌胤、内藤修理亮昌豊、高坂又八郎助宣、土屋右衛門尉昌次、甘利郷左衛門信康、横田十郎兵衛康景と続いています。 |
本丸からの景色
蔀の構
本丸と、本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見渡せないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。 |
二の丸
甲陽軍鑑によれば、新府城から落ち延びる際に、真田安房守(真田昌幸)が吾妻(多分岩櫃城)へ御籠城なさるようにと進言したが、長坂長閑は真田は一徳斎(真田幸隆)以来わずか三代仕えた侍大将であり、それよりは譜代の小山田兵衛が申し出た郡内の岩殿に籠城するほうがよいと判断して勝頼公に申し上げ、勝頼も真田に従うことなく古府中に向かって行ったという。 |
西三の丸
新府城は構築された年代のせいか、思ったより規模が大きくて驚きました。これだけの城を作って首都移転を行ったにもかかわらず3ヶ月余りで、自ら火を放ってしまうことになります。 |
東三の丸
1999年09月05日 武田信玄は「人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という歌にも知られている通り甲斐国内には城を作らなかったが、勝頼の代になって徐々に信長、家康勢力に押されぎみになり、穴山梅雪の助言によってこの韮崎に城を築いたのであった。築城の総責任者は真田昌幸(真田幸村の父)であり、七里岩という断崖絶壁の土地を利用した難攻不落の城である。とんでもなく長い階段をやっとのことで登り、本丸に行ってみると結構大きい土地が広がっていた。かなりの規模の城であったことがわかる。せっかく作ったこの城は勝頼が入城して3ヶ月目には勝頼自ら火を放ち、東へ落ち延びていくことになる。 |
本丸跡