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山梨県韮崎市

新府城

2020年06月20日〜21日

天正9年に武田氏の当主武田勝頼が新たに府中の中核として築造した新府城は、韮崎市を貫通する釜無川と塩川の2大河川の開削によって形作られた七里岩台地上にあり、その西崖を活かした要害の地に築城されている。
主郭(本丸)からは、富士山・甲府盆地・八ヶ岳が一望でき、諏訪・佐久・駿河等への交通網を把握しやすい立地にある。また本城の北方には能見城があり、北の守りの要となっている。釜無川をはさんだ対岸には、甲斐武田氏の初代にあたる武田信義が治めた地域が広がり、その歴史を示す願成寺の木像阿弥陀仏如来及び両脇侍像、武田八幡宮、白山城跡や武田信義館跡などの文化遺産が点在している。新府城を中心とした新たな府中の様子は未解明な点が多いが、家臣団の屋敷位置の描かれた絵図の存在や屋敷地の伝承を持つ土塁跡などの遺跡が確認されている。新府城跡とその周辺には、本城が交通・軍事・政治・経済などの様々な条件のもとに築城された経緯を知り得る良好な歴史的景観が保たれている。
(看板資料より)

新府城跡の位置づけ
新府城跡の本丸と二の丸の空間構成は、武田氏館(躑躅ヶ崎館)跡の方形の堀と土塁で囲まれた主郭と西曲輪の配置に類似した形態をなしており、新府城は武田氏の守護館を踏襲して造営されたと考えられる。当時の文献資料においても、「新御館」「新館」「御館韮崎」「館」と記されており、軍事的施設という認識以上に、館を意識した城郭であったことが窺える。
館は領国支配の中心的な役割を果たし、政権を執行するための重要かつ公的な場所である。新府城は、単に軍事的目的のためだけに築城されたものではなく、甲斐を中心に信濃・駿河・遠江・三河・西上野・美濃・飛騨に広がる武田領国を統治する政庁=館としてつくられたものである。
平成24年3月 文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会
(看板資料より)

新府城跡
新府城は、天正9(1581)年に武田勝頼によって築城された。城は未完成であったが、同年9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ヶ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われた。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退去し、3月11日に田野(山梨県甲州市)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡した。その後同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用した。
新府城が立地する七里岩は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の浸食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30km続き、奇観を呈している。台地上には100を越す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524mの「西の森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっている。
城は土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸と中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな郭が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯郭がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手があり、全山にわたって諸施設が配置されている。搦手の郭は東西100m、南北25mの東西方向に細長い長方形をしており、北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90m程の七里岩の断崖となっている。城の北西隅につくられている乾門は、西側は七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な形の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13m、南北約12mの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられている。
平成19年3月 文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会
(看板資料より)


東出構

新府城跡出構
出構は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。東西に約百十メートル隔てて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。城の裾に沿って掘られた堀は幅約7メートル、深さ約2.5メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。出構は新府城のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。
韮崎市教育委員会
(看板資料より)


新府城跡東出構と西出構の間の堀

天正9(1581)年に築城された新府城は、北から東の山裾に土塁をめぐらし、特に北側の堀中には2箇所の出構(東出構・西出構)と呼ばれる土手状の張り出しを構築している。発掘調査以前では、堀跡とされる一帯は、近世の絵図によって堀の存在は想定できるものの、範囲や形態等は不明であった。西出構と東出構の間には、堀の痕跡とみられる幅5〜5mほどの細長い区画が部分的に存在し一部に水路が流れており、発掘調査の結果、耕作土の下から埋没した堀跡が発見された。
新たに確認された堀の遺構は、西出構と東出構の約120mの間に、3箇所の折れをもって構築されており、幅は6〜7m、堀底までおよそ2m前後の深さがある。堀は南側が急傾斜となり、北側上半部の傾斜は緩く20〜30度、下半部で45度前後の角度をもつ。石積などの構造物はなく、箱堀で断面は2段の逆台形をしている。この堀の北側には深田状の湿地帯が広がっていたものと推定され、それらを含めて新府城北側の防御施設としたと考えられる。
整備事業では、発見された堀跡遺構を保護した後、その上に深い堀の範囲が分かるように復元を行っている。
平成22年3月 文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会
(看板資料より)


西出構と西側の堀

新府城北側の堀には東西2つの張り出しがあり、ここは西出構とよばれています。幅約20m、長さ約28m、高さ約3.5mの規模があり、東側は一段低い幅5mの平場が設けられています。
約120m隔てた東には、東出構があります。出構の機能には敵を迎え撃つ陣地や堀の水位調節など諸説あります。
発掘調査では次のようなことが分かりました。
@出構は性質の異なる土をほぼ水平に積み上げて構築されたこと。
A一段低い平場には拳大の大きさの石がほぼ一面に敷き詰められていたこと。
B東西の出構の間には堀が作られ、堀の端は出構の一段低い平場の根元部分に2mほど食い込んで掘られていたこと。
C堀の中には少数ですが、青磁や染付などの中国産の陶磁器の破片が埋もれていること。
整備では、現状保存を主な目的として、保護のための盛り土や堀の肩部分の土塁状の高まりも含めて出構周囲の整備を行いました。
平成31年3月 文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会
(看板資料より)


新府城跡北側の堀

新府城跡の北側山裾には外側に向かって、帯郭・土塁・出構・堀などの諸施設が設けられているが、西堀(水堀)以外の堀跡は、周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど、廃城後の土地利用による改変で旧状は不明であった。
環境整備事業にともなう発掘調査により、中堀では、山際から埋もれていた深い堀跡が確認された。この発見された堀は、断面が逆台形状となる箱堀と推定され、西堀の東端から始まり、堀幅は6〜7m、深さは2.5m前後で、西出構の手前で閉じている。また堀の北側には堀と平行する低い土手状の高まりが見られる。堀は直線ではなく2箇所に折れをもった構造で、城側の土塁も同じ箇所で折れをもつ。
西出構と東出構の間にも、発掘調査によって同様な深い堀跡が発見された。堀は城側の土塁に沿って3箇所の折れがみられる。この堀は西出構の東側と西側の両方で閉じている。東出構の東側では深い堀は確認できていない。今回の調査によって、築城時には中堀・東堀の山際は幅約6〜7m、深さ約2.5mの深い堀と、その北側は幅30m前後の湿地帯がセットになって城の北側を防御していたことが明らかとなった。そのため整備では深い堀跡と浅い湿地帯の形状を復元し、新府城の使用時の状況を伝えることを主眼とした。
西堀(水堀)は、発掘調査を実施せずに現状のままを樹木の間伐と植栽などの修景を行った。
平成23年3月 文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会
(看板資料より)


新府城跡西側

東側を塩川に、西側を釜無川に浸食された七里岩台地上に築かれた新府城は、急な崖を城壁に、その東西を南流する両河川を外堀とした天然の要害である。
西側を流れる釜無川の右岸一帯は武川衆と呼ばれる地域武士団の根拠地(武川筋)である。その一角に位置する韮崎市神山町武田は、平安時代末に甲斐源氏武田氏の始祖である武田信義が館を構えた地であった。
諏訪へ通じる甲斐と信濃の国境地域の守衛にあたった武川衆は、文化11(1814)年成立の江戸時代の地誌「甲斐国志」に「新府ニテ勝頼謀略アリテ面々ノ小屋ニ引入アルベシトノ儀ナリ、各々其意ヲ守リシカドモ其謀略相違セシ故二武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシト」とあるように、新府城の防衛にも関わっていたことが推測されるが、織田軍の侵攻が急激であったため、新府落城時には、動きが取れなかったようである。
武田滅亡後、織田信長の死に端を発した天正壬午の戦いでは、武川衆は徳川家康の配下に属し、家康の本陣となった新府城に対して若神子城以北に陣を構えた北条氏直の軍と最前線で対峙し戦功をあげている。
(看板資料より)


 

新府城跡乾門 桝形虎口
城の北西隅につくられたこの虎口は、西側の七里岩の崖と東側に広がる水堀の間を土橋によってわたる構造で、入口側が低く、奥側が高い土塁に囲まれた不整方形をした桝形虎口となっている。桝形内部空間は、東西13m、南北12mの広さがある。
入口側の低い土塁に挟まれた一之門は北西角、奥側の高い土塁に挟まれた二之門は南東隅寄りに設けられている。桝形内部で折れを持って入る形態となっており、表面は土のままで石を敷き詰めたような痕跡は認められていない。
一之門跡では、幅約1.55mの間隔で直径45cm前後の円形の柱穴が2個検出された(柱穴の中心で測る柱の間隔は約2m)。二之門跡の調査では、左右の土塁際に3個ずつ、合計6個の礎石が確認された。左右対称に並べられた礎石からもとめられる間口は2.5m、奥行きは2.8mあり、礎石は一辺40〜60cmと大きさの異なる自然石で、入口側から大・小・中の大きさに並べられ、その間は地覆石が配されている。
本整備事業では、発見した門跡遺構を埋設して保護した後、その上に一之門は柱穴の位置表示、二之門は礎石の復元表示を行っている。
(看板資料より)

桝形虎口

乾門
乾門は従来搦手と呼ばれてきた。江戸時代の地誌「甲斐国志」では新府城跡の南端に位置した門を大手と記している。一般的には、大手に対する形で北西隅にあるこの虎口を搦手と称していた。しかし城の裏門という意味合いをもつ搦手の呼称は門の機能を限定してしまうことから、本整備事項では、本丸からの方位を冠して、乾(北西)門とした。
(看板資料より)


新府城跡乾門 二之門

二之門跡からは、礎石に伴い散在した状態で焼土や炭化材、角釘等が出土し、門が燃えて倒壊したことが明らかとなった。また、門跡(礎石)に取り付く左右の土塁は、礎石手前2m程から狭くなって70〜80度の角度で立ち上がることも判明しており、土塁の敷き幅と礎石の奥行き方向の長さが同じであることから、門の構造と一体となった土塁の構築方法をうかがうことができる。
礎石上には火災による柱の太さを示す焼け跡も確認できた。
二之門となる虎口は間口に対して奥行きの長い礎石配置という特徴があり、戦国時代の城門にみられる形態のひとつを示している。
韮崎市教育委員会並びに史跡新府城跡保存整備委員会では、発掘調査成果を基に、これまで二之門の建物復元を検討してきた。そこでは、@平入横長形式の櫓門、A妻入り2階建ての櫓門、B1層の妻入り門の3つが復元案として出されたが、現時点では資料の制約等から門の復元案を決定することは慎重にすべきとの結論に至った。
今後は新府城跡の調査をはじめ他の城館跡の調査事例等、資料の蓄積をまって建物復元の検討を進めることとした。
今回の整備事業は、発見された遺構を保護した上で、二之門跡に接する左右の土塁については現況遺構の保存を行い、発掘調査で確認された礎石及び地覆石は復元表示を行った。なお、埋設による遺構の保護を優先させるために、復元した門跡の礎石部分が桝形全体からみると実際よりは高くなっている。
(看板資料より)


木橋の橋台

乾門の郭の東端(向かって左側)とその東側の空堀をはさんだ対岸(向かって右側)に張り出しがある。この張り出しは、空堀を通行する木橋の橋台部と考えられる。堀の幅などを考慮すると、木橋の幅員は1.2m、長さ15mを想定することができる。
乾門側(向かって左側)の橋台部は、版築状に異なる性質の土、黄褐色、褐色、黒褐色、暗褐色の土を突き固めて少しずつ盛り上げる工法で作られている。
空堀に向かう傾斜地には3m×30cmの長方形の形状の小段があり、また堀底から平石が発見されている。平石の大きさは60〜80cmで20cmの厚みのある台形をしたもので、本来は小段に配置されていて、橋の支柱を受けたものと想定される。
なお、空堀の反対側の張り出しの斜面では、小段や礎石などは確認されていない。虎口部分についても、礎石などの門の存在を示す遺構は検出されていない。
この橋台部から城内への経路は、帯郭を通り、大手丸馬出の東側に向かう。
(看板資料より)


井戸跡

本遺構は、調査前の上端の直径が32mあるすり鉢状の大きな窪地で、発掘は現状の地表面から4mの深さになっても底に到達しなかった。七里岩台地の堅い地盤を掘りくぼめ、浸み出した水や雨水を集める構造であったと思われる。井戸底まで螺旋状の通路が設けられる巻巻井戸の可能性もあったが、その遺構を確認できていない。整備では、検出した井戸内側斜面を保護するために植栽(リュウノヒゲ等)し、見学通路として井戸の中に至る階段を北側に設けた。
なお、北西100mの帯郭にも井戸跡とみられる同様の形状の窪地がある。
(看板資料より)


丸馬出と三日月堀

丸馬出と三日月堀

 


2013年09月07日

 
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新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。
(看板資料より)


石祠・武田勝頼公霊社

勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し、毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。
(看板資料より)


本丸

史跡新府城
新府城は武田勝頼によって天正9(1581)年2月に築城着手され、その完成したのは同年12月であった。それまで甲府躑躅ヶ崎の館城にあった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する遺骸に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正10年3月3日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。本城は南北600米、東西550米、外堀の水準と本丸の標高差80米、型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西90米、南北120米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二の丸があり大手に続く。堀は北西から北、北東へと巡り北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」は鉄砲のような新兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
(看板資料より)

二の丸


西三の丸


南大手門

大手馬出し
大手門の前に築かれた馬出しの跡である。馬出しというのは城門の前に築いて人馬の出入を敵に知られぬよう、また城の内部を見通せないようにした土手をいう。馬出しは甲州流築城法の特色の構である。
(看板資料より)

大手望楼台
物見などともいった展望台である。片山口ともいい南方甲府盆地富士川河谷一帯を監視した場所である。
(看板資料より)

 



2003年10月06日

駐車場からの新府城

新府城想定復元図

新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。
(看板資料より)

新府城は以前PSアドバイザー氏と来たことがありましたが、今回来てみて、前回は全部を見てまわっていなかったことが良く分かりました。
思ったよりかなり規模は大きく、広大な本丸があり、その奥には一段下がって二の丸がありますが、前回はここまでで帰ってしまっていたことが分かったのです。また本丸の北側には「石祠・武田勝頼公霊社」というものがあり、平成14年度の日付があったので去年新しいものに作り変えたようです。
今回新たに発見したのは、蔀の構や三の丸及び大手門などで、本丸と二の丸の間に走っている林道?をそのまま下っていけばそれらを確認することができます。


新府城跡出構(東出構え)

出構は城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートル隔てて並行に2本が築かれている。
(看板資料より)

真田昌幸が縄張りした城
新府城は真田昌幸が縄張り(設計)した城です。前回来たときは階段を登って本丸と二の丸を見ただけであったことが分かりました。駐車場に車を止めて新府城本丸への入口である階段のところまで歩いていく最中に、出構の案内看板があり、そこから東側の出構を見ることができました。出構とは見た感じは出城のようなイメージで、大阪夏の陣のときに真田昌幸の子、真田幸村が築いた真田丸を連想してしまいました。


新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城である。
本城は南北600メートル、東西550メートル、外堀の水準と本丸の標高差80メートル、型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西90メートル、南北120メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり、馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に掘を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
(看板資料より)

ミステリースポットとしての新府城
最近知ったのですが、新府城は山梨県では有名なミステリースポットなのだそうです。確かに城跡の周囲には何も無いので夜は真っ暗になってしまいますね。私の職場の隣席の人は青年時代を山梨で過ごした人なのですが、夜新府城に行ったときにひどい頭痛になったと言っていました。私は2回来ていますがまだそういった体験をしたことはありません。


石祠・武田勝頼公霊社

勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し、毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。
(看板資料より)

両脇には長篠役陣没将士の墓として、大塚と小塚があり、左側には勝頼公霊社から近い順に、馬場美濃守信房、山県三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、小山田五郎兵衛昌輝、五味貞氏と続き、右側には、武田兵庫頭信実、原隼人佐昌胤、内藤修理亮昌豊、高坂又八郎助宣、土屋右衛門尉昌次、甘利郷左衛門信康、横田十郎兵衛康景と続いています。

本丸からの景色


蔀の構

本丸と、本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見渡せないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。
(看板資料より)


二の丸

甲陽軍鑑によれば、新府城から落ち延びる際に、真田安房守(真田昌幸)が吾妻(多分岩櫃城)へ御籠城なさるようにと進言したが、長坂長閑は真田は一徳斎(真田幸隆)以来わずか三代仕えた侍大将であり、それよりは譜代の小山田兵衛が申し出た郡内の岩殿に籠城するほうがよいと判断して勝頼公に申し上げ、勝頼も真田に従うことなく古府中に向かって行ったという。

西三の丸

新府城は構築された年代のせいか、思ったより規模が大きくて驚きました。これだけの城を作って首都移転を行ったにもかかわらず3ヶ月余りで、自ら火を放ってしまうことになります。
天正9年に作り始めたときから情勢は変わり、木曽氏、穴山氏といった有力な御親類衆が裏切ってしまったため、新府城に籠城する作戦はとれなくなり別のところに落ち延びることになったのだと思いますが、400年以上も続いた甲斐源氏がまさに亡びようとしているとき勝頼及び息子の信勝は何を思ったのでしょうか?
ここで死なずに東へ落ち延びていったということは、まだ岩殿城で再起をはかれると思っていたのでしょうか。

東三の丸


1999年09月05日

武田信玄は「人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という歌にも知られている通り甲斐国内には城を作らなかったが、勝頼の代になって徐々に信長、家康勢力に押されぎみになり、穴山梅雪の助言によってこの韮崎に城を築いたのであった。築城の総責任者は真田昌幸(真田幸村の父)であり、七里岩という断崖絶壁の土地を利用した難攻不落の城である。とんでもなく長い階段をやっとのことで登り、本丸に行ってみると結構大きい土地が広がっていた。かなりの規模の城であったことがわかる。せっかく作ったこの城は勝頼が入城して3ヶ月目には勝頼自ら火を放ち、東へ落ち延びていくことになる。

  本丸跡

 

 
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