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山梨県韮崎市

武田信義館跡

2013年09月07日

武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承4(1180)年高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2(1186)年病没したとされる(享年59)。
しかし、建久元(1190)年頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5(1194)年の東大寺造営や、小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以降も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の居館跡は武田区の東端を占め、およそ250メートル平方の地で、今は民家・耕地が入り混じっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成20(2008)年には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

武田の里は甲斐源氏総領武田氏発祥の地である。今を去る八百年余の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。治承4(1180)年、高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功をたて、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の忌むところとなって退けられ、文治2(1186)年、失意のうちに世を去った。年59。
墓は鳳凰山願成寺にある。信義の館は武田区の東端を占め、およそ250メートル平方の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
(看板資料より)


 

武田館跡というのは、武田信義の館跡のことでした。上の写真のように入口の看板があるので場所はすぐに分かると思います。近くには武田八幡宮願成寺などがあります。

 

 
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