←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県韮崎市

願成寺

2013年09月07日

山門

 
大きな地図で見る

山門概説
前の山門は寛文2(1662)年曹洞二世中興赫山?奕和尚代建立された。
約200年を経た元治元(1864)年8月9日大暴風雨のため倒壊す。
平成2(1990)年12月信義公遺徳顕彰会に依り再建された。
この山門は、切妻胴板葺き、本柱を円柱、控柱に方柱を用い、柱下に石造礎石を置いた。本柱、控柱を桁行に通した頭貫で繋ぎ、冠木を架し、大斗、方斗、巻斗、肘木、蟇股などを組み、上に肘木、丸行を通し軒先を紅梁で繋いでいる。
極めて簡単な構造であるが、全体に木割大きく構成的力感がある室町時代の手法を模した、豪放的な気風を現わした建築様式、和風の建造物である。
(石碑記載文章より)

山号額由来
寺記に拠ると、信義公(1128〜1186)は仏道を尊崇すること厚く、願成寺を祈願所として崇敬し諸堂を整備し、巨費を投じて京より阿弥陀三尊像(重要文化財)を迎えて奉安し、ひたすら阿弥陀信仰に没入されたが、山号がないのを遺憾として後白河法皇に奏請した。
法皇は平氏討滅に大功のあった公の忠節を嘉賞され、鳳凰山と命し、宋より渡日していた僧馗安に揮毫させて下賜された寺宝である。
山門倒潰の際も難を免れ、爾後も累代住職持して今日に伝う。


阿弥陀堂

願成寺
宝亀2(771)年、権大僧都心休了愚法印により開創され、京都祇園寺の末寺であった。延長6(928)年、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
武田信義(1128〜1186)武田の荘に館を営み、この寺を祈願所として中興す。後白河法皇に山号を奏請、京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)
降って、中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚の時、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄2(1559)年2月、甘利住武川衆曽雌対馬守定能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
天正10(1582)年、織田信長の兵火に伽藍焼失、復興緒についた慶長12(1607)年、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前記2組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。
寛永15(1638)年、然室応廊和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく。万治元(1658)年弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。この間、廃仏毀釈、不況、戦争の世相に荒廃余儀なき約1世紀を経過し、現在境内伽藍の復興整備中なり。
(看板資料より)


武田氏累代御霊殿

累代法号
先甲院殿峻徳尊了大居士尊霊:義光公:大治2年10月20日
正覚寺殿陽山清公大居士尊霊:義清公:久安元年7月23日
清光院殿玄源太公大居士尊霊:清光公:仁安3年6月8日
願成寺殿俊照国公大禅定門尊霊:始祖 信義公:文治2年3月9日
重阿弥陀仏尊霊:2代 信光公:宝治2年8月19日
眼阿弥陀仏尊霊:3代 信政公:不明
与阿弥陀仏尊霊:4代 信時公:不明
聲阿弥陀仏尊霊:5代 時綱公:不明
昭阿弥陀仏尊霊:6代 信宗公:不明
清浄心院殿雪山照公大禅定門尊霊:7代 信武公:延文4年7月13日
継統院殿雪窓光公大禅定門尊霊:8代 信成公:明徳5年6月13日
護国院殿花峰大居士尊霊:9代 信春公:応永20年10月23日
棲雲寺殿明庵光公大居士尊霊:10代 信満公:応永24年2月6日
成就院殿功岳道成大居士尊霊:11代 信重公:宝徳2年11月24日
能成寺殿勇山健公大居士尊霊:12代 信守公:享徳4年5月11日
永昌院殿傑山勝公大禅定門尊霊:13代 信昌公:永正2年9月16日
長興院殿孚山邦公大禅定門尊霊:14代 信縄公:永正4年2月14日
大泉寺殿泰雲康公庵主尊霊:15代 信虎公:天正2年3月5日
恵林寺殿機山玄公大居士尊霊:16代 晴信公:元亀4年4月12日
法泉寺殿泰山安公大居士尊霊:17代 勝頼公:天正10年3月11日
英材雄公大禅定門尊霊:18代 信勝公:天正10年3月11日
(看板資料より)


始祖武田信義公墓塔(願成寺の五輪塔)

中央塔が信義公、向かって左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終る)の墓塔と伝えられている。
信義公の塔は総高183cm、材石は角礫凝灰岩。堂々とした威容は武田氏始祖甲斐源氏の総帥の墓碑にふさわしい。
方形の地輪、球形に近い水輪、半球形の風輪、最上部の空輪、いずれも鎌倉時代初期の塔形として完全に近い形状である。
また屋根に相当する火輪は下り棟が直線に近く原始形を見せ、ほどよい反り、厚い軒付、隅の増しの少ない形など非の打ちどころのないものである。鎌倉初期の塔形として資料的にも貴重である。
(石碑記載文章より)


信義公八百回忌之塔

武田信義について
武田信義は、大治3(1128)年に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。戦国時代に信玄・勝頼を輩出した甲斐武田氏は、信義がここ武田の地を治めたことに始まる。
信義は、武田の地に居館(武田信義館跡)と要害城(白山城跡・国指定史跡)を置き、勢力を拡大していく。やがて甲斐源氏の惣領となった信義は、治承4(1180)年に以仁王の令旨を受け、信濃国の平氏方を討伐した。更に富士川の戦いでは、奇襲により平惟盛の軍勢を退却させる。その後も平氏追討の主力となり、鎌倉幕府の創設に貢献したのである。
しかし甲斐源氏の勢力に危機感を持った源頼朝は信義に謀反の疑いをかけ、子息の一条忠頼が謀殺されるなど、晩年の信義は幕府から冷遇されたようである。
願成寺には、信義寄進とされる木造阿弥陀如来及び両脇持像(国重文)や、信義の墓と伝えられる鎌倉時代初期の五輪塔がある。
(看板資料より)


武田家家臣招魂の碑



1999年09月05日

武田八幡宮から少し降りたところに願成寺というお寺がある。ここには武田信義の墓があった。我々以外は誰もいなかったので詳しいことは分からなかったが、静かでいいところだ。

  武田信義の墓

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→