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山梨県韮崎市

武田八幡宮

2013年09月07日

二の鳥居

 
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武田八幡宮は弘仁13(822)年勅命により土地の神、武田王の祠廟に九州宇佐八幡を勧請し併祀して創建されたという。武田王は日本武尊の御子で武田村の桜の御所でこの土地を治められた。さらに清和天皇の貞観年間(859〜76)に京都石清水八幡を勧請し甲斐武田氏の崇敬をあつめた。特に新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服し武田氏を名乗り甲斐武田が発祥した。
武田晴信(信玄)は父信虎の本殿再建を引き継ぎ天文10(1541)年12月23日に竣工させた。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は昭和4年国指定重要文化財に指定された。勝頼夫人は新府城落城の寸前の天正10(1582)年2月19日氏神武田八幡宮に勝頼の戦勝と武田家の繁栄を祈願し切々たる願文を奉納した。徳川家からは27石余りの御朱印を与えられ保護された。
(看板資料より)

由緒、歴史
武田八幡宮は弘仁13(822)年、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し竪五尺横四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社を氏神と定め尊崇した武田太郎信義の没後3,4年を経た承久2(1220)年に信義の弟加賀美次郎遠光が「本社末社123の鳥居迄造営御座候」と修復整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の年武田晴信朝臣の御代御神殿をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給いて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄14(1701)年に再興、寛政元(1789)年に再再興したという記録が刻まれている。その後、昭和54年に屋根の修理が行われ、更に平成11年着工の大改修に至った。
興石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に興石東面が約3.5メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が激しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、興石まで行われている。社記によると二の鳥居場は110坪あり、御田祭などの祭事も執り行われた。昭和60年2月に二の鳥居附興石は韮崎市指定有形文化財に指定され、更に平成12年10月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。
(看板資料より)


武田八幡宮石鳥居と総門

石造明神鳥居。大きな礎石上に立つ柱には双葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張りの如くに感じられ、しかもがっちりと太く、これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程好い真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。
鳥居の貫に天正12年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。
石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石段をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
(看板資料より)

総門


武田八幡神社本殿

武田八幡神社はもと武田八幡宮と呼ばれた。社記によれば、往古この地に武田王をまつる宮社があったところへ、弘仁13(822)年2月勅命により、九州宇佐八幡宮を勧請して王の宮社に合祀し、武田八幡宮と称したのが起こりで、のち貞観年間(859〜876)に京都石清水八幡宮を社中に勧請した。新羅三郎義光以来甲斐源氏の尊崇が厚かったが、ことに義光の曾孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を氏神とあがめて崇敬のかぎりをつくした。のち300余年を経て天文10(1541)年、武田晴信(信玄)が甲斐の守護になると、当社本殿の造営に着手し、同年12月23日に早くも落成した。
本殿は三間社流造・桧皮葺で、身舎は桁行三間・梁間二間、柱は円柱を用い、組物は遠肘木つきの和様出組として軒支輪を設け、組物間の中備は間斗束である。頭貫の先端は木鼻をつけ、室町期の特色を見せる。正面三間は幣軸構えとして金箔押しに八双金具で飾る両開きの板唐戸をつけ、扉の両脇の方立面を埋める松・竹の透彫装飾は豪華絢爛である。壁は板で周囲には刎高欄つきの縁をめぐらし、両側に脇障子を備える。正面には昇高欄つき階段を設け、向拝前面に浜床を張る。向拝三間は面取り角柱で、組物は桁行外方にだけ二手先となる通肘木つきの連三斗組をおき、中備えに透彫の装飾を入れた蟇股を飾る。妻飾りは虹梁大瓶束で、屋根は桧皮葺の切妻造りで、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造りをなす。本殿全体は木割が雄大で、しかも装飾的意匠にすぐれた室町時代の特色を示し、武田氏興隆の力強さを誇る遺構として貴重な有形文化財である。
(看板資料より)



2004年04月24日


武田八幡宮は弘仁13(822)年勅命により土地の神、武田王の祠廟に九州宇佐八幡を勧請し併祀して創建されたという。武田王は日本武尊の御子で武田村の桜の御所でこの土地を治められた。さらに清和天皇の貞観年間(859〜76)に京都石清水八幡を勧請し甲斐武田氏の崇敬をあつめた。特に新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服し武田氏を名乗り甲斐武田が発祥した。
武田晴信(信玄)は父信虎の本殿再建を引き継ぎ天文10(1541)年12月23日に竣工させた。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は昭和4年国指定重要文化財に指定された。勝頼夫人は新府城落城の寸前の天正10(1582)年2月19日氏神武田八幡宮に勝頼の戦勝と武田家の繁栄を祈願し切々たる願文を奉納した。徳川家からは27石余りの御朱印を与えられ保護された。
(看板資料より)

二の鳥居

由緒、歴史
武田八幡宮は弘仁13(822)年、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し竪五尺横四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社を氏神と定め尊崇した武田太郎信義の没後3,4年を経た承久2(1220)年に信義の弟加賀美次郎遠光が「本社末社123の鳥居迄造営御座候」と修復整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の年武田晴信朝臣の御代御神殿をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給いて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄14(1701)年に再興、寛政元(1789)年に再再興したという記録が刻まれている。その後、昭和54年に屋根の修理が行われ、更に平成11年着工の大改修に至った。
興石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に興石東面が約3.5メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が激しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、興石まで行われている。社記によると二の鳥居場は110坪あり、御田祭などの祭事も執り行われた。昭和60年2月に二の鳥居附興石は韮崎市指定有形文化財に指定され、更に平成12年10月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。
(看板資料より)


武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁13年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に拠って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文10年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切々たる願文は今に伝えられ武田家には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。
(看板資料より)

武田の里 公園の概要
韮崎市は、甲斐の武田氏の発祥地で、神山町には武田信義の館跡をはじめ、武田八幡神社・白山城跡・願成寺など武田一族の一連の旧跡が点在し、隣接の町にも数多くの歴史的遺産が点在します。
また、この地域を灌漑する徳島堰は江戸時代の用水路として名高く、御勅使川の流域には、信玄築堤の将棋頭の遺構もあり、七里岩台上には、民俗資料館、坂井遺跡、新府城跡など古代から近世に至る貴重な歴史的遺産があり、一方新府城跡の城下には、近年桃源郷が開発され、また高山植物の宝庫と言われる南アルプスの山々が文化の花を添えている。
このほか市の象徴ともいわれる平和観音像や文豪山本周五郎の文学碑、詩人北原白秋・歌人窪田空穂・山岳家深田久弥などの文学碑、市民の心を広げる数々の文化的遺産にも富んでいます。
ここに、これらを含めた地域を歴史と文化の「武田の里」公園に指定し、地域の人々のご協力を得て、永遠に保護することをこの市の誇りとしたいと思います。
(看板資料より)

武田八幡神社本殿
武田八幡神社はもと武田八幡宮と呼ばれた。社記によれば、往古この地に武田王をまつる宮社があったところへ、弘仁13(822)年2月勅命により、九州宇佐八幡宮を勧請して王の宮社に合祀し、武田八幡宮と称したのが起こりで、のち貞観年間(859〜876)に京都石清水八幡宮を社中に勧請した。新羅三郎義光以来甲斐源氏の尊崇が厚かったが、ことに義光の曾孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を氏神とあがめて崇敬のかぎりをつくした。のち300余年を経て天文10(1541)年、武田晴信(信玄)が甲斐の守護になると、当社本殿の造営に着手し、同年12月23日に早くも落成した。
本殿は三間社流造・桧皮葺で、身舎は桁行三間・梁間二間、柱は円柱を用い、組物は遠肘木つきの和様出組として軒支輪を設け、組物間の中備は間斗束である。頭貫の先端は木鼻をつけ、室町期の特色を見せる。正面三間は幣軸構えとして金箔押しに八双金具で飾る両開きの板唐戸をつけ、扉の両脇の方立面を埋める松・竹の透彫装飾は豪華絢爛である。壁は板で周囲には刎高欄つきの縁をめぐらし、両側に脇障子を備える。正面には昇高欄つき階段を設け、向拝前面に浜床を張る。向拝三間は面取り角柱で、組物は桁行外方にだけ二手先となる通肘木つきの連三斗組をおき、中備えに透彫の装飾を入れた蟇股を飾る。妻飾りは虹梁大瓶束で、屋根は桧皮葺の切妻造りで、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造りをなす。本殿全体は木割が雄大で、しかも装飾的意匠にすぐれた室町時代の特色を示し、武田氏興隆の力強さを誇る遺構として貴重な有形文化財である。
(看板資料より)


1999年09月05日

韮崎インターから釜無川(富士川)を渡った反対側に武田の里といわれている一帯がある。その中でも一番奥にあるのが武田八幡宮である。義清の次男である信義が武田荘を与えられこの付近を本拠地としたところであり、信義はこの武田八幡宮の前で元服し武田を名乗ったとのこと。やはり武田発祥地はここであろう。そろそろ階段を登るのがつらくなってきた。

 

 
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