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愛知県新城市

内藤昌豊陣地

2014年08月16日

甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。
同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年にわたる国主としての武田家の歴史に終止符をうつとともに天下平定の望みも叶わぬものとなった。
同地には勝頼公の菩提寺として天童山景徳院が建立され関係者により手厚い慰霊が行われている。この石碑は勝頼公の遺徳を偲ぶため新城市、設楽原をまもる会の好意により大和村特産の甲斐鞍馬石で建立したものである。
(看板資料より)


「内藤の陣地も墓も天王山」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)


内藤修理亮昌豊の墓

かるたでつづる設楽原古戦場によれば、内藤昌豊が陣を張り、また戦死したところでもある天王山は武田軍のちょうど中央に位置します。内藤昌豊は千五百の兵を率いてこの天王山から出撃して柳田激戦地で6回に渡って激戦を繰り返し、織田・徳川連合軍の第一、第二の柵を破って更に激しく攻めたという。また徳川方の資料によると、内藤隊の兵役20名ほどが第三の柵も突破して攻め込んで来たと書かれています。
しかしその後武田方は劣勢となり、内藤隊も犠牲者が多くなりそれ以上進撃することができず、天王山の陣地に退却します。そしてついに勝頼の旗が退いていくのを見とどけた後、残兵とともに押し寄せてくる敵の攻撃を防ぎましたが、最後は体が矢竹で蓑のようになったといい伝えられています。


横田備中守綱松の墓

悲運の親子
天正3年5月、親子4人で出陣した甲州の武将横田備中守は、設楽原の決戦で息子達と共に全員が討死した。
・長男は三年前の三方原で戦死している。
・残された五男が、有海に父の塚を立てた跡がある。
(看板資料より)

 



2006年05月06日

招魂碑

かるたでつづる設楽原古戦場によれば、内藤昌豊が陣を張り、また戦死したところでもある天王山は武田軍のちょうど中央に位置します。内藤昌豊は千五百の兵を率いてこの天王山から出撃して柳田激戦地で6回に渡って激戦を繰り返し、織田・徳川連合軍の第一、第二の柵を破って更に激しく攻めたという。また徳川方の資料によると、内藤隊の兵役20名ほどが第三の柵も突破して攻め込んで来たと書かれています。
しかしその後武田方は劣勢となり、内藤隊も犠牲者が多くなりそれ以上進撃することができず、天王山の陣地に退却します。そしてついに勝頼の旗が退いていくのを見とどけた後、残兵とともに押し寄せてくる敵の攻撃を防ぎましたが、最後は体が矢竹で蓑のようになったといい伝えられています。


「そこかしこ顕彰碑たてし牧野文斎」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)



2003年10月12日

甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。
同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年にわたる国主としての武田家の歴史に終止符をうつとともに天下平定の望みも叶わぬものとなった。
同地には勝頼公の菩提寺として天童山景徳院が建立され関係者により手厚い慰霊が行われている。この石碑は勝頼公の遺徳を偲ぶため新城市、設楽原をまもる会の好意により大和村特産の甲斐鞍馬石で建立したものである。
(看板資料より)


「内藤の陣地も墓も天王山」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

内藤修理亮昌豊の墓

横田備中守綱松の墓

前回来たときは保育園の裏は工事中でしたが、4年ぶりに再び訪れてみてきれいに整備されていました。中央の目立つところに勝頼公指揮の地の碑があるのでここが勝頼の本陣かと思っていましたが、今回史跡案内資料によりここは内藤昌豊の陣地であることを初めて知りました。歴史博物館の方の話によれば才の神の勝頼公観戦地はここから少し離れたところにあるので、勝頼の戦地本陣はここではないのではないかとのことでした。

 


1999年11月23日

信玄塚の近くに勝頼公指揮の地の碑があった。保育園の裏にあって、これも偶然見つけることができました。周りには内藤昌豊戦死の地等もありました。

内藤修理亮昌豊之碑

横田備中守綱松之墓


内藤塚
景徳院
横田十郎兵衛康景之碑

 

 
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