内藤昌豊陣地 |
2014年08月16日 |
甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。 な |
内藤修理亮昌豊の墓
かるたでつづる設楽原古戦場によれば、内藤昌豊が陣を張り、また戦死したところでもある天王山は武田軍のちょうど中央に位置します。内藤昌豊は千五百の兵を率いてこの天王山から出撃して柳田激戦地で6回に渡って激戦を繰り返し、織田・徳川連合軍の第一、第二の柵を破って更に激しく攻めたという。また徳川方の資料によると、内藤隊の兵役20名ほどが第三の柵も突破して攻め込んで来たと書かれています。 |
横田備中守綱松の墓
悲運の親子
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2006年05月06日 |
招魂碑
かるたでつづる設楽原古戦場によれば、内藤昌豊が陣を張り、また戦死したところでもある天王山は武田軍のちょうど中央に位置します。内藤昌豊は千五百の兵を率いてこの天王山から出撃して柳田激戦地で6回に渡って激戦を繰り返し、織田・徳川連合軍の第一、第二の柵を破って更に激しく攻めたという。また徳川方の資料によると、内藤隊の兵役20名ほどが第三の柵も突破して攻め込んで来たと書かれています。 そ |
2003年10月12日 |
甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。 な |
内藤修理亮昌豊の墓
横田備中守綱松の墓
前回来たときは保育園の裏は工事中でしたが、4年ぶりに再び訪れてみてきれいに整備されていました。中央の目立つところに勝頼公指揮の地の碑があるのでここが勝頼の本陣かと思っていましたが、今回史跡案内資料によりここは内藤昌豊の陣地であることを初めて知りました。歴史博物館の方の話によれば才の神の勝頼公観戦地はここから少し離れたところにあるので、勝頼の戦地本陣はここではないのではないかとのことでした。
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1999年11月23日 信玄塚の近くに勝頼公指揮の地の碑があった。保育園の裏にあって、これも偶然見つけることができました。周りには内藤昌豊戦死の地等もありました。 |
内藤修理亮昌豊之碑 |
横田備中守綱松之墓 |
→内藤塚
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