群馬県高崎市
善龍寺の内藤塚 永禄9(1566)年箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理之亮昌豊に領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建に当らせた。昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に出陣して戦死した。時に天正5年5月であった。その子昌月は父の遺骸を奉じここに葬った。昌月も天正16年正月に逝去し昌豊の側に葬られた。後世これを内藤塚と呼び伝え、また一名開基塚とも呼ばれている。大切に供養されて今日に及んでいる。 (看板資料より)
善龍寺本堂