龍岸寺 |
2013年10月13日 |
本堂・庫裡落慶記念碑 |
真田隠岐守信尹の墓
真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の4男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10(1582)年の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは信尹の斡旋による。この後も昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19(1614)年甲斐巨摩郡の内に、采地を与えられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六文銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9(1632)年5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
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2006年12月03日 |
真田隠岐守信尹の墓があるお寺が長坂にあることは以前から知っていたのですがなかなか寄る機会がなく、今回やっと訪問することができました。真田隠岐守信尹とは、真田幸隆の四男であるといわれています。ちなみに長男は真田源太左衛門信綱、次男が真田昌輝、そして三男が真田昌幸です。長坂インターチェンジでおりて現地に向かってみましたが、場所が分からないため北杜市役所(旧長坂町役場)に向かいました。役場には日直の方がおられたので龍岸寺の場所を聞いてみましたが知らないようでした。但し、この付近でお寺といえば1ヶ所くらいしかないとのことでその場所を教えてもらいました。教えていただいたとおりに行ってみましたがそこは役場に行く前に寄った神社でした。周辺を走って龍岸寺を聞きまわりましたが、ちょうど場所を知っているご婦人がおられたのでなんとかたどり着くことができました。駐車場に車を止めて墓地の方向に歩いていってみると看板のようなものが見えたのでそのまま墓地の方に行きました。看板には「真田隠岐守信尹の墓」と書かれていましたが、その領域には複数の墓が立ち並んでいてどれが真田隠岐守信尹の墓なのかは分かりませんでした。お寺の人に聞いてみようと思い、お寺を訪ねてみたら住職の方らしき方が対応してくれました。話に寄れば真田隠岐守信尹の墓は特定できるものではなく該当の領域全体を指すとのことでした。真田隠岐守信尹に関するお話は特に聞くことはできませんでした。 |
真田隠岐守信尹の墓
真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の4男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10(1582)年の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは信尹の斡旋による。この後も昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19(1614)年甲斐巨摩郡の内に、采地を与えられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六文銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9(1632)年5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。 |