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長野県上田市

信綱寺

2014年09月
28日

大柏山 信綱禅寺
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。
開山 大光智照禅師(高山順京大和尚)
開基 真田源太左エ門尉信綱公
宝物殿(血染陣羽織、昌幸・信之の古文書他)
真田信綱夫妻・昌輝公・白川氏御墓所
(看板資料より)

本堂


真田信綱の墓

上田市指定文化財(史跡)
真田信綱は天文6(1537)年、幸隆の長子として生まれ、父病没の後38歳で家督を継いだが、翌天正3(1575)年、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と共に戦死した。
信綱の首級は、家臣白川勘助解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に葬られた。その後打越寺は、信綱公菩提所として信綱寺と改称された。
享保2(1717)年、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。
近年、夫妻の墓の隣に昌輝の新しい墓が建立された。
真田信綱 天正3年5月21日没 享年39歳
         信綱寺殿大室道也大居士
真田昌輝 天正3年5月21日没 享年33歳
               嶺梅院殿風山良薫大居士
中央が信綱公、左が信綱公夫人、右が昌輝公の墓
(看板資料より)

長野県小県郡真田町の信綱寺には信綱の墓がある。山門に桜の古株があり、長篠の戦で討死した信綱の首級をその臣、白川勘助解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死した。後に寺の裏山に改葬して立派な墓とした。
宝篋印塔が2基あり、1基は信綱のである。他の1基は妻のものとも言われているが、妻の墓は別の寺にあり、昌輝のものとも言い切れないとのことであった。
本堂に、信綱の鎧の銅、首級を包んで来たという白川勘助解由の陣羽織、白絹地の背旗などが宝蔵されている。
一方、「信長公記」には、討ち取る首の見知分の中に「さなだ源太左衛門」と出ており、弟昌輝の名は出ていない。
連合軍の左翼を攻撃していた信綱の首級を右翼にいた家康の士、渡辺十郎政綱が討ち取ったほどの乱戦でったとすれば、弟の首を兄のものと誤認したのではないかとさえ考えられる。
昌輝について書いたものが2つある。「日本戦史 長篠役補伝」の「第58高木清秀の戦功」の条に「清秀も尾州の隊に在りて甚働き、真田兵部昌輝と鑓を合」とあるのはその1つである。
他の1つ、信綱寺の文章には「兵部丞昌輝は、信綱と同時に長篠で討死し、その子孫は越前福井少将の臣となり、千石を領した。代々、真田淡路という」とある。
(長篠合戦余話より)


白川兄弟の墓

信綱寺、信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。兄弟は信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、ともどもに主君の後を追って殉死したという。
(真田氏史料集より)


歴史の丘

中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現し、芝生の小段はそれぞれの段ごとに真田氏の活躍した時代、例えば真田時代、上田時代、沼田時代を表現しています。赤石による六文銭旗は、真田氏の歴史上の特に重要な戦いを表現しています。史を貫く時間軸を赤い色は大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」にちなんでいます。黒い石に刻まれたものは「花押」です。書き判とも呼ばれ、現代の印鑑にあたるものです。武将その人を示す証明のサインです。ここでは上段に真田氏、下段には当時の真田氏と特に関係の深かった武将の花押を配しています。
(看板資料より抜粋)

 



2012年03月
17日

大柏山 信綱禅寺
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。
開山 大光智照禅師(高山順京大和尚)
開基 真田源太左エ門尉信綱公
宝物殿(血染陣羽織、昌幸・信之の古文書他)
真田信綱夫妻・昌輝公・白川氏御墓所
(看板資料より)


血染めの陣羽織

長篠合戦で討死した信綱の首級と、その愛刀青江の太刀は、家臣白川勘解由兄弟が戦場から持ち帰り、首は現在の信綱寺の場所へ葬った。信綱寺は信綱の名を寺名としたものである。この陣羽織は、その信綱の首を包んできたものと伝える。ところどころに血痕が残っており、血染めの陣羽織と称している。
(真田氏史料集より)


黒漆塗仏二枚胴(真田信綱所用)

天正3(1575)年の長篠合戦で戦死した真田信綱のよろい。江戸時代中期の享保2(1717)年、信綱の菩提所である信綱寺の墓の中から発見されたもの。戦死時の着料であった可能性もある。損傷が激しいが、所々に金箔が残っている。
昌幸の長兄、幸村の叔父にあたる信綱は元亀元(1570)年頃までに父幸隆から家督を継承。だが父の死から1年後に39歳で亡くなった。
(説明資料より)


真田昌幸書状

高野山配流後の真田昌幸が慶長8(1603)年3月15日に書き送った書状。家康様が今夏江戸に向かうと聞いたので、私の赦免のことを本多正信が家康様に持ち掛けるのではないか、私の赦免が叶い下山したらお目にかかって話をしたい、という内容。家康は同年2月12日、征夷大将軍に補任されたばかりであった。
昌幸は江戸で秀忠に近侍する正信に対し、将軍補任後最初の江戸入りという機会を捉えて赦免の口添えを期待していたことがうかがえる。正信は秀忠に従って真田攻略に参画した人物で、昌幸の高野山配流は彼の発案だったとされる。
宛先の信綱寺は真田昌幸の兄信綱の菩提寺だが、結局、昌幸が再び信綱寺を訪れることはなかった。
(説明文章より)


木製の鬼瓦

今から220年前(1756年)信綱寺の鐘桜を建立したとき、けやきの木でつくられた縦130cm、横170cm、厚さ15cmの大きな鬼瓦です。
(説明資料より)


真田信綱の墓

上田市指定文化財(史跡)
真田信綱は天文6(1537)年、幸隆の長子として生まれ、父病没の後38歳で家督を継いだが、翌天正3(1575)年、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と共に戦死した。
信綱の首級は、家臣白川勘助解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に葬られた。その後打越寺は、信綱公菩提所として信綱寺と改称された。
享保2(1717)年、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。
近年、夫妻の墓の隣に昌輝の新しい墓が建立された。
真田信綱 天正3年5月21日没 享年39歳
         信綱寺殿大室道也大居士
真田昌輝 天正3年5月21日没 享年33歳
               嶺梅院殿風山良薫大居士
中央が信綱公、左が信綱公夫人、右が昌輝公の墓
(看板資料より)

長野県小県郡真田町の信綱寺には信綱の墓ガある。山門に桜の古株があり、長篠の戦で討死した信綱の首級をその臣、白川勘助解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死した。後に寺の裏山に改葬して立派な墓とした。
宝篋印塔が2基あり、1基は信綱のである。他の1基は妻のものとも言われているが、妻の墓は別の寺にあり、昌輝のものとも言い切れないとのことであった。
本堂に、信綱の鎧の銅、首級を包んで来たという白川勘助解由の陣羽織、白絹地の背旗などが宝蔵されている。
一方、「信長公記」には、討ち取る首の見知分の中に「さなだ源太左衛門」と出ており、弟昌輝の名は出ていない。
連合軍の左翼を攻撃していた信綱の首級を右翼にいた家康の士、渡辺十郎政綱が討ち取ったほどの乱戦でったとすれば、弟の首を兄のものと誤認したのではないかとさえ考えられる。
昌輝について書いたものが2つある。「日本戦史 長篠役補伝」の「第58高木清秀の戦功」の条に「清秀も尾州の隊に在りて甚働き、真田兵部昌輝と鑓を合」とあるのはその1つである。
他の1つ、信綱寺の文章には「兵部丞昌輝は、信綱と同時に長篠で討死し、その子孫は越前福井少将の臣となり、千石を領した。代々、真田淡路という」とある。
(長篠合戦余話より)


白川兄弟の墓

信綱寺、信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。兄弟は信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、ともどもに主君の後を追って殉死したという。
(真田氏史料集より)

 



2003年09月
23日

当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。
(看板資料より)


真田信綱夫妻の墓
信綱は幸隆の長子に生まれ、父病没のあとをつぎ、屋敷を原の郷に移して松尾城を守る。天正3年武田勝頼に従って織田信長と長篠で戦い、5月21日信長方の新兵器鉄砲の一斉射撃にあい、弟昌輝と共に戦死した。年39才。家臣白川某その首級を鎧の胴内に納めてこの地に葬る。後、昌幸が兄信綱のあとをつぎ、信綱寺殿大室道也大居士とおくりなして大柏山信綱寺の開基とし、信綱夫妻の墓をたて厚くとむらう。
(看板資料より)

お寺の前でウロウロしていたら女性が現れてお墓を探しているのですか?と聞かれたので、はいと答えたら、場所を教えてくれました。お寺の入口から右のほうにまわって上に登って行くと真田兄弟の墓のところに出ます。墓碑近くには、真田源太左衛門尉信綱公、真田兵部少輔昌輝夫妻之墓と書かれた石碑が立っていました。どの墓碑がだれのものに対応するのかはよく分かりませんでしたが、真田兄弟の墓の奥にはこのお寺の住職の墓と思われるものがありました。


歴史の丘

信綱寺の前には歴史の丘というものがありました。

中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現し、芝生の小段はそれぞれの段ごとに真田氏の活躍した時代、例えば真田時代、上田時代、沼田時代を表現しています。赤石による六文銭旗は、真田氏の歴史上の特に重要な戦いを表現しています。史を貫く時間軸を赤い色は大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」にちなんでいます。黒い石に刻まれたものは「花押」です。書き判とも呼ばれ、現代の印鑑にあたるものです。武将その人を示す証明のサインです。ここでは上段に真田氏、下段には当時の真田氏と特に関係の深かった武将の花押を配しています。
(看板資料より抜粋)

手前左側から歩くと、順に真田信繁(幸村)、真田昌幸、真田信之、真田信昌、真田信綱、真田幸隆と続き、反対側から戻ってくると逆に、武田信玄、武田勝頼、徳川家康、豊臣秀吉、豊臣秀頼と続きます。

 

 
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