信綱寺 |
2014年09月28日 |
大柏山 信綱禅寺 |
本堂
真田信綱の墓
上田市指定文化財(史跡) 長野県小県郡真田町の信綱寺には信綱の墓がある。山門に桜の古株があり、長篠の戦で討死した信綱の首級をその臣、白川勘助解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死した。後に寺の裏山に改葬して立派な墓とした。 |
白川兄弟の墓
信綱寺、信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。兄弟は信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、ともどもに主君の後を追って殉死したという。 |
歴史の丘
中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現し、芝生の小段はそれぞれの段ごとに真田氏の活躍した時代、例えば真田時代、上田時代、沼田時代を表現しています。赤石による六文銭旗は、真田氏の歴史上の特に重要な戦いを表現しています。史を貫く時間軸を赤い色は大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」にちなんでいます。黒い石に刻まれたものは「花押」です。書き判とも呼ばれ、現代の印鑑にあたるものです。武将その人を示す証明のサインです。ここでは上段に真田氏、下段には当時の真田氏と特に関係の深かった武将の花押を配しています。
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2012年03月17日 |
大柏山 信綱禅寺 |
血染めの陣羽織
長篠合戦で討死した信綱の首級と、その愛刀青江の太刀は、家臣白川勘解由兄弟が戦場から持ち帰り、首は現在の信綱寺の場所へ葬った。信綱寺は信綱の名を寺名としたものである。この陣羽織は、その信綱の首を包んできたものと伝える。ところどころに血痕が残っており、血染めの陣羽織と称している。 |
黒漆塗仏二枚胴(真田信綱所用)
天正3(1575)年の長篠合戦で戦死した真田信綱のよろい。江戸時代中期の享保2(1717)年、信綱の菩提所である信綱寺の墓の中から発見されたもの。戦死時の着料であった可能性もある。損傷が激しいが、所々に金箔が残っている。 |
真田昌幸書状
高野山配流後の真田昌幸が慶長8(1603)年3月15日に書き送った書状。家康様が今夏江戸に向かうと聞いたので、私の赦免のことを本多正信が家康様に持ち掛けるのではないか、私の赦免が叶い下山したらお目にかかって話をしたい、という内容。家康は同年2月12日、征夷大将軍に補任されたばかりであった。 |
木製の鬼瓦
今から220年前(1756年)信綱寺の鐘桜を建立したとき、けやきの木でつくられた縦130cm、横170cm、厚さ15cmの大きな鬼瓦です。 |
真田信綱の墓
上田市指定文化財(史跡) 長野県小県郡真田町の信綱寺には信綱の墓ガある。山門に桜の古株があり、長篠の戦で討死した信綱の首級をその臣、白川勘助解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死した。後に寺の裏山に改葬して立派な墓とした。 |
白川兄弟の墓
信綱寺、信綱の墓の傍らにあり、白川兄弟の墓と伝える。兄弟は信綱の首級を信綱寺に葬ってのち、ともどもに主君の後を追って殉死したという。
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2003年09月23日 |
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。 |
真田信綱夫妻の墓 お寺の前でウロウロしていたら女性が現れてお墓を探しているのですか?と聞かれたので、はいと答えたら、場所を教えてくれました。お寺の入口から右のほうにまわって上に登って行くと真田兄弟の墓のところに出ます。墓碑近くには、真田源太左衛門尉信綱公、真田兵部少輔昌輝夫妻之墓と書かれた石碑が立っていました。どの墓碑がだれのものに対応するのかはよく分かりませんでしたが、真田兄弟の墓の奥にはこのお寺の住職の墓と思われるものがありました。 |
歴史の丘
信綱寺の前には歴史の丘というものがありました。 中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現し、芝生の小段はそれぞれの段ごとに真田氏の活躍した時代、例えば真田時代、上田時代、沼田時代を表現しています。赤石による六文銭旗は、真田氏の歴史上の特に重要な戦いを表現しています。史を貫く時間軸を赤い色は大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」にちなんでいます。黒い石に刻まれたものは「花押」です。書き判とも呼ばれ、現代の印鑑にあたるものです。武将その人を示す証明のサインです。ここでは上段に真田氏、下段には当時の真田氏と特に関係の深かった武将の花押を配しています。
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