真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑 |
2014年08月16日 |
み 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで掃き清めて、小さき川石に「真田源太左ェ門尉信綱之墓」と刻し、尚一つの石には「真田兵部亟昌輝之墓」と彫りつけてあれば、其の下手の段には矢張、川石に「禰津甚平是広之墓」とほり入れ、又一個の石には鎌原筑前守之網之墓、常田図書春清之墓」ほり込みたるを読み下すだに涙のたねにぞありける。 真田幸隆(一徳斉)の長男である真田源太左衛門尉信綱と、二男である真田兵部丞昌輝はこの設楽原の地で討死しました。彼らの墓は長野県真田町の信綱寺にあります。真田兄弟が討ち死にしたことによって三男昌幸が真田家を継ぐことになります。 長篠合戦余話によれば、真田兄弟は馬場信房、穴山梅雪、土屋昌次らとともに武田軍の右翼に陣して織田軍を攻撃したが兄弟とも戦死したという。その墓碑は上の写真のようにただ一基であり、左右にそれぞれの名が刻まれていました。真田兄弟は設楽原の戦いを必死と思い極めていたのでひるまずに奮戦し、禰津甚平是広、鎌原筑前守之綱、常田図書春清らとともに討死したという。信綱の首は徳川の家臣、渡辺半十郎政綱が取ったといわれている。真田源太左衛門尉信綱は信玄、勝頼2代に仕え武勇抜群であったという。 |
鎌原筑前守之綱の墓
真田兄弟の墓碑の左に並んで、「藷山随筆」により設楽原をまもる会が再建した鎌原、常田、祢津の墓標が三基ある。 |
常田図書春清の墓
三子山に鎌原の墓碑の左に並んで設楽原をまもる会によって再建された「藷山随筆」の「常田図書春清之墓」がある。常田姓は上田市の生島足島神社にある「武田諸将起請文」の一通の中の、海野衆連署起請文の中に常田の署名がある。海野棟綱の系図に常田永則がいる。長野県真田町の信綱寺の「信綱寺殿御事蹟」に永則は設楽原で討死したとあり、外に春清の名は見当たらず、永則は春清であると思われる。 |
禰津甚平是広の墓
三子山に鎌原・常田の墓碑の左に並んで、設楽原をまもる会によって再建された「藷山随筆」の「禰津甚平是広之墓」がある。禰津氏は滋野一族であり、天文14(1545)年、信濃祢津城主宮内少輔元直は武田に開城した。祢津元直の娘が信玄に嫁している。元直の孫の月直が天正3年長篠の戦いで戦死したというが、祢津是広と月直の関係は明らかではない。
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2006年05月05日 |
かるたでつづる設楽原古戦場によれば、丸山砦を守る佐久間信盛の軍勢に対して武田軍の馬場隊が猛攻撃をかけてこれを追い払ったが多くの犠牲者を出してしまった。馬場隊に続いて真田兄弟が攻撃を開始し、第一柵を破って、第二柵に取りかかる勢いであった。しかし兄の真田信綱が戦死し、弟の昌輝も負傷してしまった。その後武田軍が劣勢となり武田勝頼の本陣が退却し始めた。真田昌輝はその様子を見送った後、兄である真田信綱の死に場所を探しましたが既に敵軍が充満しており、勝頼の退却を援護するため群がる敵軍を引き寄せて戦いついに壮烈な死を遂げたとのことです。 |
私が訪れたときは、近くのお墓にお墓参りに来ていたご家族がいました。この日はいい天気でしたが真田兄弟の碑のところは木陰だったので涼しくて静かなところでした。甲田から少し北に行ったところで丸山砦から台地を越えて東側になります。
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2003年10月12日 |
み 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで掃き清めて、小さき川石に「真田源太左ェ門尉信綱之墓」と刻し、尚一つの石には「真田兵部亟昌輝之墓」と彫りつけてあれば、其の下手の段には矢張、川石に「禰津甚平是広之墓」とほり入れ、又一個の石には鎌原筑前守之網之墓、常田図書春清之墓」ほり込みたるを読み下すだに涙のたねにぞありける。 真田幸隆(一徳斉)の長男である真田源太左衛門尉信綱と、二男である真田兵部丞昌輝はこの設楽原の地で討死しました。彼らの墓は長野県真田町の信綱寺にあります。真田兄弟が討ち死にしたことによって三男昌幸が真田家を継ぐことになります。 長篠合戦余話によれば、真田兄弟は馬場信房、穴山梅雪、土屋昌次らとともに武田軍の右翼に陣して織田軍を攻撃したが兄弟とも戦死したという。その墓碑は上の写真のようにただ一基であり、左右にそれぞれの名が刻まれていました。真田兄弟は設楽原の戦いを必死と思い極めていたのでひるまずに奮戦し、禰津甚平是広、鎌原筑前守之綱、常田図書春清らとともに討死したという。信綱の首は徳川の家臣、渡辺半十郎政綱が取ったといわれている。真田源太左衛門尉信綱は信玄、勝頼2代に仕え武勇抜群であったという。 |
禰津甚平是広、鎌原筑前守之綱、常田図書春清の墓
→信綱寺
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