←前のページ トップページ↑ 次のページ→

愛知県新城市

樋口下総守兼周の墓

2014年08月16日

樋口兼周のものとされる碑は、大きな緑色片岩を土台に、30cm余りの一石五輪と、今一つ五輪の頭だけの石と共に据えられ、浅谷墓地の登り口に建てられている。
地元で庚申坂と呼ぶ旧道傍で四ツ目垣に囲まれ、碑前の花壷には折々香花が供えられ、地区の方々による鎮魂の手が差し延べられている。
兼周の眠る浅谷区の地は、設楽原決戦当日、戦場を退く勝頼らが連合軍の追撃を防ぎながら、才の神から甲田、宮脇、浅木、出沢、銭亀へと辿る退路に位置する。五反田川の上流であり、狭くても川沿いには道はあったであろう。兼周の碑の建つ所から四百メートル程下流には、宮脇地区の三子山墓地があり、そこに真田信綱・昌輝兄弟、禰津甚平、常田図書春清、鎌原筑前守ら真田一族の墓所がある。そこより更に五百メートル下手には、初鹿野らが甲を捨てたという甲田があり、堀無手右衛門の塚もある。これらの墓碑や甲田の伝えは、この地この道筋が勝頼の退路であり、主を守る将士たちの退いていった道であったことを証するものであろう。兼周も主人を守り、後を慕って決戦場を引き、浅谷のこの地まで来て、力尽きて斃れたか、鉄砲や刃の戦いの中で、多勢に無勢、あえない最後を遂げたのであろう。
兼周の位牌を守り、その末裔という長野県松代町樋口文子氏の話によると、樋口家の系図には「武田勝頼の直臣で長篠の役にて、勝頼に諫言して自刃した、墓は東郷村前田にある。河原利助記」と添書があるという。法名は「元享院殿天遊道春居士」であり、家紋は「三っ鱗」である。「院殿」の位階から考えると相当な地位にある武将であったと思われるのであるが、兼周の名前はなかなか書物の中に出てこない。
兼周は真田勢の一員として、主勝頼を共に戦場を退き、主を守りながらこの地宮脇三子山まで来た。そして、ここで勝頼に何らかの緊急事態が出来した。敵の急激な追撃があり、勝頼が戦闘場面へ加わろうとしたか。真田兄弟、鎌原らはこの三子山で討死し、兼周はこの場の主を守り、或いは諌めて浅木まで退き、自らは腹を切った。自刃という言い伝えと碑のあるこの地を結び付ける自然な一つのシーンになると思うのである。
(設楽原戦場考より)



2012年05月04日

樋口兼周のものとされる碑は、大きな緑色片岩を土台に、30cm余りの一石五輪と、今一つ五輪の頭だけの石と共に据えられ、浅谷墓地の登り口に建てられている。
地元で庚申坂と呼ぶ旧道傍で四ツ目垣に囲まれ、碑前の花壷には折々香花が供えられ、地区の方々による鎮魂の手が差し延べられている。
兼周の眠る浅谷区の地は、設楽原決戦当日、戦場を退く勝頼らが連合軍の追撃を防ぎながら、才の神から甲田、宮脇、浅木、出沢、銭亀へと辿る退路に位置する。五反田川の上流であり、狭くても川沿いには道はあったであろう。兼周の碑の建つ所から四百メートル程下流には、宮脇地区の三子山墓地があり、そこに真田信綱・昌輝兄弟、禰津甚平、常田図書春清、鎌原筑前守ら真田一族の墓所がある。そこより更に五百メートル下手には、初鹿野らが甲を捨てたという甲田があり、堀無手右衛門の塚もある。これらの墓碑や甲田の伝えは、この地この道筋が勝頼の退路であり、主を守る将士たちの退いていった道であったことを証するものであろう。兼周も主人を守り、後を慕って決戦場を引き、浅谷のこの地まで来て、力尽きて斃れたか、鉄砲や刃の戦いの中で、多勢に無勢、あえない最後を遂げたのであろう。
兼周の位牌を守り、その末裔という長野県松代町樋口文子氏の話によると、樋口家の系図には「武田勝頼の直臣で長篠の役にて、勝頼に諫言して自刃した、墓は東郷村前田にある。河原利助記」と添書があるという。法名は「元享院殿天遊道春居士」であり、家紋は「三っ鱗」である。「院殿」の位階から考えると相当な地位にある武将であったと思われるのであるが、兼周の名前はなかなか書物の中に出てこない。
兼周は真田勢の一員として、主勝頼を共に戦場を退き、主を守りながらこの地宮脇三子山まで来た。そして、ここで勝頼に何らかの緊急事態が出来した。敵の急激な追撃があり、勝頼が戦闘場面へ加わろうとしたか。真田兄弟、鎌原らはこの三子山で討死し、兼周はこの場の主を守り、或いは諌めて浅木まで退き、自らは腹を切った。自刃という言い伝えと碑のあるこの地を結び付ける自然な一つのシーンになると思うのである。
(設楽原戦場考より)

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→