郷土史家牧野文斎は、その著書『設楽原戦史考』の彼我の戦死者の考証の中で「真偽決しがたく、また洩れたる分少なからず、否認すべきもの左の諸氏あり」として、堀無手右エ門の設楽原における戦死を否定している。
その理由を『甲陽軍鑑』に次のようにあるからだとしている。
…一条右衛門太夫殿衆にあさみ清太夫・堀無手エ門、中根七右エ門是三人は三河浪人なるが、走り、来りて…云々(天正8年の膳の城の素肌攻め於て也)
要するに、設楽原の戦いの5年後・膳の城の戦いに堀の名が見えるので設楽原では戦死していないというのである。
しかし長篠合戦に参加していない長坂長閑が、医王寺山における軍議で設楽原決戦を主張するという間違いを犯している『甲陽軍鑑』であり、膳の城に堀がいたということを全面的に信用してよいかどうかいささか疑問である。
堀は、勝頼の叔父一条信龍の家臣として設楽原で戦った。その戦いぶりは、鎌子信治著『長篇長篠軍記』によれば、堀無手右エ門は最後の決戦に属して、竹広村山形高地に陣取り徳川の精鋭を防ぎ、敵将本多甚九郎正近を討取り味方総崩れとなるや、武田信豊等と途中宮脇川の此所において追兵を防ぎ、敵将滝川源右エ門助義をたおし、その他二十余人を殺傷した此処に壮烈の戦死を遂げた。とある。滝川助義をたおしたというのは疑問だが、一条衆は馬場勢とともに勝頼の退路を確保するため最後まで奮戦したのである。当然堀無手右エ門も一条衆として戦ったのである。山形高地から出沢の谷まで行ったときには、兵力は尽き、こうした戦いのなかで堀無手右エ門もついに討死したのであろう。
『藷山随筆』にいう堀無手右エ門の墓は、旧飯田街道の東側に塚があり、椿の老樹が目印に立っているというが、四百二十年後の現在その塚も老木も跡形も無い。また、老木の言い伝えも無い。
平成10年1月30日設楽原をまもる会は『藷山随筆』の言う地形から推測して、下々地区の北端、八束穂字古屋敷660の1番地に墓碑を建立した。
(設楽原戦場考より)
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