望月氏は遠江守昌頼の時代、天文11年9月20日武田信玄の佐久侵攻の際ほぼ全滅したという。当主昌頼は逃れ、家の再興をはかったが2〜3年後には消息を絶ってしまう。
わずかに布引山に立てこもった庶流の望月源三郎・同新六が武田方に抵抗したものの、その後間もなく降参してその家臣となる。この源三郎が望月遠江守信雅を名乗り、武田家から望月宗家の名跡を継ぐあつかいを受けた。その信雅に跡取りがなく養子に迎えたのが信玄の弟典厩信繁の次男である。右近太夫四義勝と書かれたものが多いが、正しくは「左衛門尉信永」であるという。武田家では望月殿と言われていた。望月甚八郎重氏は望月宗家を継いだ信雅の弟である。
そして長篠・設楽原に参戦したのは左衛門尉信永と、甚八郎重氏である。
(設楽原戦場考より)
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