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山梨県北杜市

笹尾塁

2013年10月13日

笹尾塁跡は、釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、釜無川に注ぐ深い侵食谷のため自然の要害に恵まれたところである。本塁跡は、東西80m、南北260mほどの規模とみられ、周囲には、地名、小字名に、「馬場」、「馬場の井戸」、「上屋敷」、「東屋敷」、「中屋敷」、「御所屋敷」、「堀の内」などがある。
■時代
構築時代は不明だが史実に登場するのは諏訪市の上宮「当社神幸記」享禄4(1531)年の頃に記述にある。武田・諏訪両氏の対立に享禄4年1月22日、笹尾砦が使われたことを伝えている。
■型
本塁跡は、並行する堀、あるいは掘切土塁などによって区切られ、全体的には6つの郭と4本の堀から形成され、1,2の郭は、塁跡の南半で「く」の字に曲がり、位置や防備の点から主郭と考えられ、物見台があったと思われる。3〜6郭は現在、畑、水田、雑木林になっている。土塁基底部には、石積みがされていた。
■出土品
雑器、土師質土器、溶融物付着土器、磁器金属製品、石製品など。

本塁は、武田信虎の国内統一の一助を担い、中世城館跡として重要な意味を持つ。
(看板資料より)

城山(じょうやま)
武田氏と諏訪氏との対立に、要害として使われたのが、この地、城山であるとされている。北に八ヶ岳の巨体を背負い、東に富士、南にアルプスの霊峰と、絶景を眺めることのできる地である。訪れる人々に、自然の素晴らしい景観と、逆戻りするような歴史の流れを与えてくれる。年百年かの時を刻む老松、鐘つき穴などは、静寂の中に更に心の安らぎを覚えさせてくれるものである。
(看板資料より)

城山(篠尾塁跡)鐘釣穴
下笹尾村は片颪の北方半里に在り、小淵沢、小荒間、両道の番所へ各壱里、上笹尾村に遠見の番所があり大ヶ森番所と抗衡し、教来石の番所へも壱余里、皆諏訪口大門嶺口の警衛八ヶ岳の西である。里人は建久元年逸見清光の建塁にて笹尾石見守、守護せりと言伝ふ。此?は七里岩上に在り、東西は深山峨々とし、南は高岩壁立し下に釜無川が流る。北方は僅に平地に接す。湟塁二三重にして甚だ廣からず。左右の山腹にも塁形が在す。本城高き処、五、六拾歩南へ下ること拾五、六歩にして洞穴あり数拾人を容るべし「鐘つり穴」と名づく。此にて鐘鳴らせば鳥原にて太鼓を打ち相應ずと言ひ伝ふ。。。甲斐国志より
(看板資料より)

八ヶ岳山麓は井戸尻、尖石両遺跡に代表されるように、律令期以降には有数な馬の産地として知られ、平安時代には牧が置かれた。甲斐各地に荘園がつくられた十世紀ごろよりこれらの荘園や牧場を拠点にして甲斐源氏が勃興した。やがて甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は、城山とこの一帯を「馬場(バンバ)」と称し、農耕馬や戦馬の育成に努めていくのである。生い茂る木々の間を縫って続く遊歩道が遠い日の人々の暮らしや、栄枯盛衰の歴史を語ってくれる。四季折々に風情を変える自然と、幾年をも越えてきた史跡とは、この地を訪れる人々にも、この地に生まれ育ち、後世を継承する人々にも、深い感銘と余韻を与えてくれている。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

笹尾塁跡は、釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、釜無川に注ぐ深い侵食谷のため自然の要害に恵まれたところである。本塁跡は、東西80m、南北260mほどの規模とみられ、周囲には、地名、小字名に、「馬場」、「馬場の井戸」、「上屋敷」、「東屋敷」、「中屋敷」、「御所屋敷」、「堀の内」などがある。
■時代
構築時代は不明だが史実に登場するのは諏訪市の上宮「当社神幸記」享禄4(1531)年の頃に記述にある。武田・諏訪両氏の対立に享禄4年1月22日、笹尾砦が使われたことを伝えている。
■型
本塁跡は、並行する堀、あるいは掘切土塁などによって区切られ、全体的には6つの郭と4本の堀から形成され、1,2の郭は、塁跡の南半で「く」の字に曲がり、位置や防備の点から主郭と考えられ、物見台があったと思われる。3〜6郭は現在、畑、水田、雑木林になっている。土塁基底部には、石積みがされていた。
■出土品
雑器、土師質土器、溶融物付着土器、磁器金属製品、石製品など。

本塁は、武田信虎の国内統一の一助を担い、中世城館跡として重要な意味を持つ。
(看板資料より)

笹尾塁跡からの風景

 

馬場の里
七里ヶ岩の崖上にある笹尾塁跡を中心に、金毘羅山、馬場池などからなり、すばらしい展望が開けています。笹尾塁跡(城山)は、武田の臣、笹尾石見守の居城とも伝えられ、武田信虎の国内統一には重要な役割を果たしたと思われます。
(看板資料より)

 

城山(じょうやま)
武田氏と諏訪氏との対立に、要害として使われたのが、この地、城山であるとされている。北に八ヶ岳の巨体を背負い、東に富士、南にアルプスの霊峰と、絶景を眺めることのできる地である。訪れる人々に、自然の素晴らしい景観と、逆戻りするような歴史の流れを与えてくれる。年百年かの時を刻む老松、鐘つき穴などは、静寂の中に更に心の安らぎを覚えさせてくれるものである。
(看板資料より)

 

城山(篠尾塁跡)鐘釣穴
下笹尾村は片颪の北方半里に在り、小淵沢、小荒間、両道の番所へ各壱里、上笹尾村に遠見の番所があり大ヶ森番所と抗衡し、教来石の番所へも壱余里、皆諏訪口大門嶺口の警衛八ヶ岳の西である。里人は建久元年逸見清光の建塁にて笹尾石見守、守護せりと言伝ふ。此?は七里岩上に在り、東西は深山峨々とし、南は高岩壁立し下に釜無川が流る。北方は僅に平地に接す。湟塁二三重にして甚だ廣からず。左右の山腹にも塁形が在す。本城高き処、五、六拾歩南へ下ること拾五、六歩にして洞穴あり数拾人を容るべし「鐘つり穴」と名づく。此にて鐘鳴らせば鳥原にて太鼓を打ち相應ずと言ひ伝ふ。。。甲斐国志より
(看板資料より)

要するに、砦の横に穴を掘っておいてそこで鐘を鳴らすことによって隣の拠点へ効率よく情報を伝達していた跡であろう。裏側の道を降りてみたが既にかなり崩れてしまっていた。足場が悪いので遊歩道からの撮影に止めた。


八ヶ岳山麓は井戸尻、尖石両遺跡に代表されるように、律令期以降には有数な馬の産地として知られ、平安時代には牧が置かれた。甲斐各地に荘園がつくられた十世紀ごろよりこれらの荘園や牧場を拠点にして甲斐源氏が勃興した。やがて甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は、城山とこの一帯を「馬場(バンバ)」と称し、農耕馬や戦馬の育成に努めていくのである。生い茂る木々の間を縫って続く遊歩道が遠い日の人々の暮らしや、栄枯盛衰の歴史を語ってくれる。四季折々に風情を変える自然と、幾年をも越えてきた史跡とは、この地を訪れる人々にも、この地に生まれ育ち、後世を継承する人々にも、深い感銘と余韻を与えてくれている。
(看板資料より)

 

 
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